エドヴァルド・ムンク

Life生涯

エドヴァルド・ムンクは、網膜に映る外界の風景を精密に写し取ることを拒み、自身の記憶に刻まれた感情や精神的な痛みを視覚的な空間に定着させる作業を続けた。彼にとって絵を描くことは、目に見えない人間の心の中にある恐怖や悲しみを解剖し、形を与える行為であった。

1863年にノルウェーで生まれた彼は、幼い頃に母と姉を結核で亡くしている。この喪失の記憶は、彼の制作の原点となった。1886年、22歳のときに発表した『病める子』は、亡き姉の臨終の場面に基づいている。ここで彼は、キャンバス上の絵の具を鋭利な工具で削り取り、また塗っては削るという実験的な手法を用いた。消えゆく命の儚さと残された者の絶望を、画面の物理的な傷として刻み込んだのである。当時の保守的な批評家たちはこれを「未完成の駄作」「粗雑な絵の具の汚れ」と激しく非難したが、この物理的な介入こそが彼独自の表現の始まりだった。

1890年代に入ると、パリやベルリンでの滞在を通じて、目に見えない観念や心理を暗示的に描く象徴主義の手法を取り入れていく。1892年にベルリンの芸術家協会に招かれて開いた個展は、その斬新さゆえに猛反発を受け、わずか1週間で警察や協会幹部によって閉鎖された。しかし彼は制作の手を止めず、人間の生と死、そして愛の変遷をひとつの連作として体系化する「生命のフリーズ」という構想を進めていった。

この時期に生み出されたのが、1893年の油彩画『叫び』である。夕暮れ時に空が血のように赤く染まり、自然界を貫く不気味な大音響を聴いたという彼自身の体験が元になっている。画面の手前で顔を歪めている人物は、自らが叫び声を上げているわけではなく、その耐えがたい音を遮断するために両手で耳を強く塞いで立ちすくんでいる。うねるような線と補色の対比によって、個人のパニック状態が空間全体を歪ませる様子が造形化されている。

油彩画が売れることは稀であったが、彼は1894年頃から銅版画やリトグラフの制作を本格化させる。1896年には、木版画の版木を電動鋸で部位ごとに切り分け、それぞれに異なる色のインクを塗ってからパズルのように組み合わせて一度に刷る「木版分割法」を開発した。1900年代に入ると、ドイツの眼科医やスウェーデンの実業家らがパトロンとなり、ベルリンの画商と版画の独占販売契約を結ぶ。版画の量産と流通によって彼は莫大な収入を得ており、後世に流布した「社会から孤立した狂気の画家」というイメージとは異なり、自身のキャリアを戦略的に管理するビジネス感覚を備えていた。

1908年、過度の飲酒と神経衰弱によりコペンハーゲンのクリニックに入院する。翌年に回復してノルウェーへ帰国すると、彼の画面からはかつての暗鬱な色調が消え去った。太く力強い筆致と鮮やかな原色を用い、生命力を讃える明朗な作風へと変化する。オスロ大学の大講堂のために描かれた壁画『太陽』では、水平線から昇る太陽の光線が放射状に画面全体を貫いている。

1916年、52歳になった彼はオスロ郊外のエケリーに広大な敷地を持つ邸宅を購入した。そこに複数の屋外スタジオを建て、自然の光の下で巨大なキャンバスに向かう環境を整えた。1944年の冬、ナチス占領下のノルウェーで80歳の生涯を閉じる。彼の枕元には愛読していたドストエフスキーの小説が開かれたまま置かれていた。彼が遺言によってオスロ市に託した約1100点の油彩画と1万8000点に及ぶ版画群は、現在も同市の美術館に収蔵されている。

Timeline 年表

  1. 1863

    12月12日、ノルウェーのローテンにて生まれる。

  2. 1877

    最愛の姉ソフィーが結核のため死去する。

  3. 1881

    クリスチャニアの王立絵画・美術学校に入学する。

  4. 1886

    秋の展覧会に『病める子』を出品し、激しい酷評を浴びる。

  5. 1889

    初の個展を開催。政府奨学金を得てパリへ本格留学する。

  6. 1892

    ベルリンでの個展が猛反発を受け、わずか1週間で打ち切られる。

  7. 1893

    ベルリンにて『叫び』や『吸血鬼』などを発表する。

  8. 1896

    パリに滞在し、多色刷り木版画の実験を成功させる。

  9. 1902

    ベルリン分離派展で「生命のフリーズ」連作を体系的に展示する。

  10. 1908

    アルコール依存と神経衰弱によりコペンハーゲンの病院に入院する。

  11. 1909

    回復して帰国。オスロ大学大講堂の壁画制作を開始する。

  12. 1916

    オスロ郊外のエケリーに邸宅を購入し、屋外スタジオを設置する。

  13. 1937

    ナチス政権によりドイツの美術館から作品82点が押収される。

  14. 1944

    1月23日に死去。全作品をオスロ市に寄贈する遺言を残す。

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