グスタフ・クリムト

Life生涯

グスタフ・クリムトは1862年、ウィーン郊外で金彫刻師の長男として生まれた。家計は苦しく、10代で工芸学校に入学したあとも奨学金に頼る生活を送る。卒業後は弟のエルンストや同窓生とともに工房を結成し、劇場や公共建築の壁画制作を請け負うようになった。当時の彼は、精密な解剖学描写と奥行きのある空間構成を特徴とする歴史画を手がけており、ブルク劇場の天井画では皇帝から勲章を授与されるなど、体制側から高い評価を得ていた。

順調なキャリアを歩んでいた彼に変化が訪れる。1892年に父と弟が相次いで急死したことで、従来の作風からの脱皮を模索し始めた。1897年、保守的な美術団体の支配体制に反旗を翻し、前衛芸術団体「ウィーン分離派」を設立する。初代会長に就任した彼は、機関誌を通じてイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動(生活と芸術の統合を目指す運動)やベルギーの象徴主義といった海外の動向をウィーンに持ち込んだ。

この時期、彼はウィーン大学の大講堂を飾る天井画を受注する。大学側は学問によって無知を克服するという伝統的な主題を期待したが、彼が提出したのは運命に翻弄される全裸の人間群像であった。これが学術界や保守派世論からの猛烈な非難を浴びる。87名の教授陣が抗議文を提出し、新聞紙上でも糾弾された。泥沼の紛争の末、彼は国家からの委嘱を辞退し、パトロンから資金を借りて前渡金を一括返済し、自身の作品の権利を取り戻した。

公共事業から退いた彼は、実業家を中心とする富裕層の女性肖像画を高額で受注するようになる。1903年にイタリアのラヴェンナを訪れた際、聖堂のビザンティン・モザイクに強い衝撃を受けた。これを機に、三次元的な奥行きを排し、金箔を用いた平面的な装飾美を確立していく。外部の視線を遮断したアトリエで、彼は常に複数の裸体モデルを歩かせ、自然な動作やポーズを素早くデッサンし続けた。

彼が生涯を通じて描き続けたのは、生命力や官能と、死や破壊の抗争という人間の内面的なドラマである。ギリシア神話を題材にした作品でも女性の性的恍惚を視覚化し、妊婦を描いた作品では新しい生命のすぐそばに髑髏を配置して不可避な死を対比させた。精神医学者のジークムント・フロイトが人間の無意識や性的衝動を体系化していたのと同じ時代に、彼は絵画という手法で人間の無意識の世界を提示していた。

1910年代に入ると、彼は金箔への依存から離れ、鮮やかな色彩文様を中心としたスタイルへと移行する。夏には毎年アッター湖畔の避暑地に滞在し、正方形のキャンバスを用いた独特の風景画を連続して制作した。1918年1月、自宅で脳卒中に倒れて右半身麻痺となり、入院先で肺炎を併発して55歳で世を去る。

彼が最晩年を過ごしたヒーツィングのアトリエには、下描きの裸体素描の上に彩色と装飾パターンが塗られていく過程を示す未完の大作が残された。このアトリエは長らく取り壊されたと信じられていたが、後の調査により、後から建てられたヴィラの内部に壁面や構造がそのまま組み込まれて現存していることが判明した。現在、彼が残した代表作の多くはウィーンのベルヴェデーレ宮殿に常設展示されている。

Timeline 年表

  1. 1862年

    ウィーン郊外バウムガルテンにて誕生

  2. 1876年

    ウィーン工芸学校に入学し壁画装飾の基礎を学ぶ

  3. 1879年

    弟や同窓生とともに工房「クンストラー・コンパニー」を結成

  4. 1883年

    工芸学校を修了しアトリエを開設、壁画受注を開始

  5. 1892年

    父と弟が急死し、遺族の扶養を引き受ける

  6. 1894年

    ウィーン大学大講堂の天井画を受注

  7. 1897年

    ウィーン分離派を設立し初代会長に就任

  8. 1900年

    大学天井画を出品し猛反発を受けるがパリ万博で金賞

  9. 1903年

    ラヴェンナを訪問しビザンティン・モザイクに衝撃を受ける

  10. 1905年

    国家委嘱を辞退し前渡金を返還、分離派を脱退

  11. 1908年

    総合芸術展を主宰し代表作『接吻』を発表

  12. 1911年

    ローマ万国博覧会にて『死と生』が第1位金賞を受賞

  13. 1918年

    脳卒中と肺炎により55歳で死去

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