Despair 絶望
1894年

- 寸法
- 91.7 × 72.5 × 2.3 cm
- 技法・素材
- 油彩、カンヴァス
- 所蔵
- ムンク美術館(オスロ、ノルウェー)
動的なパニックである『叫び』の後にあえて立ち返った、静的で沈黙した絶望の探求。家族の病と自らの内面的危機が渦巻く中、出口のない孤独をカンヴァスに刻みつけた魂の告白。
✦ 見どころ(技法・色彩)
カンヴァスの地肌が透けるほどの薄塗りで、絵具は液状に近い状態で置かれています。空は絵具を混ぜず、平行する水平のストロークで描かれ、視覚的な摩擦を生んでいます。男の顔の黄緑色と空の赤色は補色の関係にあり、手すりの急な対角線と空の水平線が力学的に拮抗することで、出口のない閉塞感を作り出しています。
✦ この絵の舞台
ノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)の東部に位置するエケベルグの丘を登る街道「リャブロシャウセエン」が舞台です。眼下にはクリスチャニアフィヨルドと市街のパノラマが広がります。景勝地である一方、丘の麓には市営の屠殺場があり、近くにはムンクの妹が入院していた精神病院が存在していました。
✦ 時代背景
1890年代前半は、産業革命による都市化の反動として精神的危機が広がった時期です。背景の血赤色の空については、1883年のクラカタウ火山噴火による大気微粒子、あるいは極成層圏の真珠母雲など、実際に観測された気象現象が基礎にあると指摘されています。印象派から離脱し、内面を描く象徴主義が台頭しました。
血のように赤い空の下、黒いコートの男が手すりに深く身を乗り出しています。
落ち窪んだ目の周囲には深い影が刻まれ、その視線は下方の水面に向けられています。
この絵を見て、ある有名な作品を思い浮かべるかもしれません。
そう、エドヴァルド・ムンクの『叫び』です。
うねるような赤と黄色の空。
奥へと続く橋と、遠ざかる二人の人物のシルエット。
背景の構図は『叫び』とほとんど同じです。
そのため、この『絶望』という絵は、ネットの解説などでよくこんな風に語られます。
「『叫び』を描くのに失敗した、ただの下絵にすぎない」と。
でも実は、それは誤りです。
この絵は『叫び』の前に描かれた失敗作ではありません。
『叫び』が完成した翌年の、1894年に描かれた独立した完成作なのです。
なぜムンクは、『叫び』を描き上げた後に、あえてこの構図へ戻ってきたのでしょうか。
発端は1891年から1892年頃のこと。
ムンクはノルウェーのクリスチャニアで、二人の友人と道を歩いていました。
日が沈み、突然、空が血の赤に変わります。
胸の下に骨の折れるような痛みを感じた彼は、疲労困憊して柵に寄りかかりました。
友人は歩き続け、彼だけが不安に震えながら立ち尽くしたのです。
自然を貫く、大きな無制限の叫び。
この強烈な体験を視覚化するため、彼は1892年に最初の『絶望』を描きました。
そして1893年、正面を向いて耳を塞ぐ決定作『叫び』を生み出します。
すべてを吐き出すような、動的なパニック。
それで表現の探求は終わるはずでした。
しかし1894年、ドイツのベルリンに滞在していたムンクは、再び筆をとります。
当時の彼は、極めて不安定な生活を送っていました。
ベルリンでの個展は「不道徳で粗雑だ」と激しい非難を浴び、わずか数日で中止に追い込まれます。
経済的には常に貧困状態。
健康面でも神経衰弱と過度の飲酒に悩まされていました。
1889年の父クリスチャンの急死による精神的ショックも、いまだ彼に暗い影を落としていたのです。
さらに、彼が歩いたエケベルグの丘の麓には、精神病院がありました。
そこには、重度の精神疾患を患う妹のラウラが入院していたのです。
定期的に妹の見舞いのために通るその道は、ムンクにとって家族の病と狂気、そして死の予感と分かちがたく結びついていました。
この続き:約408文字

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