Self-Portrait with Bandaged Ear and Pipe 包帯をしてパイプをくわえた自画像
1889年

- 寸法
- 51.0 × 45.0 cm
- 技法・素材
- 油彩・カンヴァス
- 所蔵
- 個人蔵(チューリヒ美術館寄託)
自傷という凄惨な現実から逃避せず、鏡の中の傷ついた自己を直視する冷徹な眼差し。崩れゆく精神を絵筆で繋ぎ止め、画家としての再起と不屈の理性を証明した、魂の記録。
✦ 見どころ(技法・色彩)
強烈な赤の背景と緑のコートによる、緻密に計算された補色対比が見どころです。画面を上下に分断する境界線は画家の瞳と一致し、視線を眼光へ誘導します。太く規則的な平行筆致や厚塗りが重厚な質感を生み、赤と緑の色彩の衝突を、白い包帯が視覚的な中立地帯として静かに和らげています。
✦ この絵の舞台
フランス南部アルルに実在した「黄色の家」の2階アトリエ。1889年1月中旬の極寒の冬で、暖房が貧弱なため室内でも厚手のコートと防寒帽が必要でした。ゴッホにとって自傷事件を起こした惨劇の現場であり、退院後に恐れを抱きながらも画家としての再起を懸けて戻った場所です。
✦ 時代背景
19世紀後半、写真技術の普及により絵画は「現実の忠実な記録」という役割を失いつつありました。ゴッホらポスト印象派は可視の現実の再現から脱却し、主観的な感情や内面の緊張感を色彩と筆致で表現する新しい肖像画を開拓しました。太い輪郭線と平坦な色面を用いるクロワゾニズムや、日本の浮世絵の影響も色濃い時代です。
深緑色の分厚いコートに、毛皮のあしらわれた防寒帽。
画面の中央で、フィンセント・ファン・ゴッホがまっすぐにこちらを見つめています。
顔の右半分には痛々しい白い包帯が巻かれ、口元にくわえた粗末な木製パイプからは、青白い煙が静かに立ち上っています。
この絵は長年、狂気の悲劇的天才を象徴する一枚として語られてきました。
発作の衝動に駆られて自らの耳たぶを切り落とし、馴染みの高級娼婦にそれを手渡した。
そして正気を失った狂乱のままに、この自画像を一気に描き上げたのだと。
でも実は、近年の研究によって、その物語の多くが覆されています。
2016年、ある一枚の図面が発見されました。
それは1888年当時、ゴッホを直接治療した主治医フェリックス・レが残した記録でした。
そこに描かれていたのは、耳たぶの一部などではありません。
左耳の大部分が、根元から完全に取り去られた凄惨な切断線でした。
絵の中で右側に包帯があるのは、彼が鏡に映る自分を見て描いたからです。
そして、切り落とした耳を渡した相手。
それは華やかな高級娼婦ではありませんでした。
彼女の名は、ガブリエル・ベルラティエ。
狂犬病の犬に噛まれて腕に痛々しい傷痕を負い、その治療費を稼ぐために娼館で清掃員として働いていた、農家出身の女性でした。
重度の精神的混乱の中で、ゴッホは傷ついた彼女への同情から、自らの肉体の一部を差し出そうとしたのかもしれません。
1888年12月23日の夜。
多量出血で倒れた彼は、アルル市立病院に収容されます。
レ医師の治療で一命を取り留めたものの、体力は落ち、再び発作が起きる恐怖に苛まれていました。
年が明け、1889年1月7日。
退院したゴッホは、極寒のアルルで、惨劇の現場である「黄色の家」のアトリエへと戻ります。
恐れを抱きながら。
この続き:約534文字

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