アンリ・マティス

Life生涯

1869年にフランス北部のル・カトー=カンブレジで生まれたアンリ・マティスは、法学を学び公証人役場書記として働いていた。20歳を過ぎて急性盲腸炎の療養中に母から絵の具箱を贈られたことで絵画の道へ進む。それ以前から夜間美術学校でデッサンを学んでいた彼は、1891年にパリへ出て国立高等美術学校などでアカデミックな技法を学んだ。

1896年にブルターニュのベル=イル島で印象派やゴッホの原色に触れ、暗い明暗法から脱却する。しかし、彼の絵は市場で評価されず、妻アメリーの帽子屋の収入や壁面塗装のアルバイトで生計を立てた。1902年には妻の実家が大規模な金融詐欺であるアンベール事件に巻き込まれ、帽子屋は閉店する。家族7人を養う唯一の稼ぎ手となった彼は、深刻な経済的困窮に陥った。

1904年に新印象派の点描法を試すが、点が画面の動きを殺すと判断する。翌1905年、南仏コリウールに滞在し、地中海の強い陽光のもとで陰影描写を捨て、原色をそのまま配置する手法に至る。同年の展覧会に妻をモデルにした《帽子をかぶった女》を出品すると、顔面に緑や黄色の塗りを配置した画面は批評家から「野獣(フォーヴ)」と酷評された。しかし、この作品をアメリカ人コレクターのシュタイン兄弟が購入したことで、経済的な危機を脱する。

1908年以降、ロシアの実業家セルゲイ・シチューキンから大装飾画の注文を受けるようになる。《赤の調和》では、当初青を基調としていた画面を展覧会直前に全面赤で塗り返し、壁とテーブルの境目をなくして東洋風の模様で空間を統合した。1911年の《赤のスタジオ》では、自らのアトリエの床や壁の奥行きを示す遠近法を遮断し、一面を赤褐色で覆い尽くして西洋絵画の空間表現を内部から解体した。

1917年に南仏ニースへ移住すると、室内光や後宮の女性をモチーフにした具象的な空間で色彩と光の関係を再検証する。1930年にはアメリカのバーンズ財団から大壁画《ダンス II》の注文を受け、その下絵の構成を調整する手段として、あらかじめ色を塗った紙を切り抜いて配置する切り紙絵の技法を導入した。

1941年、十二指腸がんの手術を受けて車椅子生活となる。これを機に、彼はハサミで色紙を直接裁断する切り紙絵へと全面的に移行した。絵の具を塗る動作と形を造る動作を一つにするこの手法により、1952年にはコバルトブルーの紙と白い台紙の余白を用いて《青いヌード II》を制作する。翌年完成した巨大な切り紙絵《花束》では、鮮やかな原色で着色された植物のような形が、画面いっぱいに放射状に配置されている。

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