The abduction of Psyche プシュケの誘拐

愛神話
The abduction of Psyche
寸法
209 × 120 cm
技法・素材
油彩・カンヴァス
所蔵
個人蔵(アメリカ合衆国)

✦ 見どころ(技法・色彩)

筆の跡を一切残さない、陶器のように滑らかな肌の質感が最大の見どころです。人物の温かな肌色と、背景や衣服の冷たい紫色の対比が、二人が自ら発光しているかのような立体感を生み出しています。また、極端な縦長の画面と、足元を雲の上に置く構図によって、重力を感じさせない見事な浮遊感が表現されています。

✦ この絵の舞台

舞台は地上からオリンポス山へと至る途上の天界。雲間に差す柔らかな光と紫色のグラデーションが広がり、地上の時間軸を超越した神秘的な時刻が表現されています。遥か下方に地上の山々が小さく描かれ、物質的な世界を離れて神聖な領域へ昇華しつつある瞬間であることが示されています。

✦ 時代背景

19世紀末のフランスは「ベル・エポック」の最高潮にあり、急速な工業化と都市化が進んでいました。多忙な社会と物質主義の裏返しとして、人々は日常の喧騒を忘れさせる古代神話の理想美や夢幻世界を求めていました。また、写真製版技術の完成により、絵画が版画として世界へ流通するアートビジネスが確立した時代でもあります。

✦ 鑑賞のための問い

重力のない空中に浮かぶ二人。あなたがこの絵の前に立ったら、視線はどこへ向かいますか?

大きな白い翼を持つ青年が、蝶の羽が生えた全裸の少女を抱きかかえています。

二人は紫色の薄衣を翻し、空へと舞い上がっていくところです。

この絵のタイトルは『プシュケの誘拐』。

原題の「Ravissement」という言葉から、愛の神クピドが少女プシュケを力づくで連れ去る、暴力的な略奪の場面だと言われがちです。

また、描かれた女性は画家の妻だという噂や、パリのルーヴル美術館にあるという俗説もネット上には溢れています。

でも実は、それらはすべて誤りです。

モデルはパリ在住のイタリア人プロモデルであり、絵はアメリカの個人コレクションにひっそりと所蔵されています。

そして何より、この絵は「誘拐」ではありません。

フランス語のこの言葉には、「強奪」と同時に「歓喜」や「精神の昇天」という意味があるのです。

1895年のパリ。

画家ウィリアム・アドルフ・ブクローは、70歳を迎えていました。

フランス美術界の頂点に君臨する巨匠。

富も名声も、すべてを手に入れていました。

しかし、彼の人生は喪失の連続でした。

1875年に16歳の長男ジョルジュを亡くす。

その2年後には、最初の妻ネリーと乳児だった次男を立て続けに失っています。

愛する者たちが、次々と手の中からこぼれ落ちていく。

残された彼は、絵筆を握り続けるしかありませんでした。

そんな彼が、70歳という晩年に自らの意志で企画し、サロンに出品したのがこの大作です。

モンパルナス大通りのアトリエ。

ミシャレット紙に残された準備素描を見ると、当初の構図は少し違っていました。

二人の腕の角度や位置関係に、どこか不自然な力みがあったのです。

しかし、完成した油彩画ではどうでしょう。

プシュケは両腕を胸の前で柔らかく交差させています。

頭をクピドの首元に預け、完全に身を委ねている。

そこには、抵抗や恐怖は一切ありません。

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