Dante and Virgil in Hell 地獄のダンテとウェルギリウス
1850年

- 寸法
- 280.5 × 225.3 cm
- 技法・素材
- 油彩・カンヴァス
- 所蔵
- オルセー美術館(パリ)
アカデミズムの頂点を目指す若き画家の、野心と闘争心の結晶。 世間を震撼させる圧倒的な肉体表現をカンヴァスに刻みつけた、完全なる自主制作。
✦ 見どころ(技法・色彩)
極端な明暗法により、暗褐色の地獄の闇から二人の全裸像がスポットライトを浴びたように浮き彫りになっています。筆の跡を極限まで消し去った滑らかな肌の質感と、医学的解剖学に基づいた筋肉や静脈の正確な描写が、圧倒的な生々しさを生み出しています。
✦ この絵の舞台
ダンテの叙事詩『神曲』地獄篇第30歌に登場する、地獄の第8層「悪の袋」にある第10の溝が舞台です。ここは、錬金術による物質の偽造者や他人の身元の偽造者たちが落とされ、恒久的な悪疫と狂気に苛まれる絶望的な空間として描かれています。
✦ 時代背景
1850年、フランスは二月革命後の第二共和政という政治的・社会的な動乱期にありました。若手芸術家たちの間では人間の狂気や暴力性といった不穏なテーマへの関心が高まり、文学や美術において「暗黒ロマン主義」やダンテ再発見のトレンドが席巻していました。
赤く染まった暗雲の下、全裸の男たちが激しく取っ組み合っています。
ひとりが相手の腰を突き上げ、首筋に鋭い歯を深く立てる。
噛みつかれた男は激痛に顔を歪め、全身の筋肉を引きつらせて倒れ込んでいます。
この絵を描いたのは、19世紀フランスの画家ウィリアム・ブクロー。
彼は生涯を通じて、可憐な少女や甘美な天使ばかりを描いた、上品で甘口のアカデミー画家だと言われがちです。
それが、彼に貼られたレッテルでした。
でも実は、彼の出発点は全く違いました。
若き日の彼は、不気味で残虐な、血の通った暗黒の世界を描いていたのです。
1850年のパリ。
エコール・デ・ボザールで学ぶ25歳のブクローは、野心に燃えていました。
若手の登竜門であるローマ賞で大賞をとるため。
そして、画壇での絶対的な評価を確立するためです。
彼は、世間を震撼させるための作品を企画します。
誰からの注文でもない、完全な自主制作。
題材に選んだのは、ダンテの叙事詩『神曲』でした。
地獄の底で、偽造者のジャンニ・スキッキが錬金術師カポッキオに猛進し、首筋に噛みついて引きずり回す凄惨な場面です。
手前の二人がダンテたちだと誤解されがちですが、違います。
左奥で恐怖に口元を覆うのがダンテで、静観しているのがウェルギリウスです。
ブクローは、イタリア人のプロモデルを雇いました。
約30回にも及ぶ過酷なポーズセッション。
伸張する首の筋肉、緊張する腹筋、浮き出る静脈のライン。
彼は科学的な正確さをもって、極限状態の人体をカンヴァスに叩きつけました。
1850年のサロン。
この巨大な絵は展示され、批評家たちから大絶賛を浴びます。
筋肉、神経、腱、歯を通じた見事な格闘の表現。
圧倒的な肉体の生々しさが、そこにはありました。
しかし、その過激で残酷な主題ゆえに、買い手は一人も現れませんでした。
この続き:約527文字

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