ゴッホの黄色は、病が見せた色だったのか?
ゴッホが書いた「青と黄色の交響曲」とは?
今回の物語を読み終えるころには、《ひまわり》の黄色が少し違って見えるかもしれません。
ゴッホの目に映っていた世界

《ひまわり》を前にして、
「この人には世界がこんなふうに見えていたのだろうか」
と思ったことはないでしょうか?
激しい筆触と鮮烈な黄色で描かれたキャンバスを見つめていると、画家の特殊な視界を想像したくなることがあります。
キャンバスに塗り重ねられた黄色には、それほどの強さがあります。
同じような疑問を抱いた人たちは実際にいて、医学の立場からさまざまな仮説が唱えられてきました。
病気や薬の影響で視界が黄色く染まっていたのではないかという見解は、苦悩する天才画家の逸話として長く語り継がれています。
ゴッホの黄色は、どこから来たのか?
手がかりになるのは、ゴッホ自身が書き残した手紙と、作品が描かれた時期の記録です。
10年だけ絵を描いた画家

ゴッホは1853年にオランダで生まれました。
若き日は画商の店員や語学教師、伝道師などの職業を転々としながら模索を続け、27歳のころに画家を目指すことを決意します。
1890年に37歳で亡くなるまで、彼が画家として活動したのは約10年という短い期間でした。
この短くも濃密な歩みを陰で支え続けたのが、4歳年下の弟テオです。
テオはパリで画商として働きながら、兄に生活費と画材代を送り続けました。
ゴッホはテオに向けて、自分が日々何を描き、どのような芸術表現を模索しているかを詳細に書き送っています。
彼が手紙で思考を記録し続けたおかげで、現在も800通以上の手紙が残されています。

1888年2月、ゴッホはパリを離れ、フランス南部の町アルルへ移り住みました。
彼は画家仲間とともに暮らし、互いに制作を高め合えるアトリエをつくりたいと考え、敬愛していた画家のゴーギャンを招きます。
ゴーギャンはゴッホより5歳年上のフランスの画家で、株式仲買人の仕事を辞めて絵の道に進んだ人物です。
のちに南太平洋のタヒチに渡り、鮮やかな色彩で島の人々を描いた作品で知られるようになります。
1888年10月にふたりの共同生活が始まります。
しかし、芸術をめぐって意見がぶつかることも多く、共同生活は約2か月で破綻を迎えました。
同年12月にはゴッホが自身の耳を切る事件が起きます。
その後も精神の発作に苦しみながら描き続け、1890年7月、自ら銃を撃ち、その2日後に亡くなりました。
このような波乱に満ちた生涯から狂気の天才というイメージが定着し、彼の描いた黄色もまた病の表れとして語られるようになっていきました。
1枚の肖像画が生んだ仮説
病気と黄色の結びつきをめぐり、1枚の肖像画をきっかけに興味深い仮説が立てられました。

その作品が、1890年6月、ゴッホが亡くなる前の月に描いた《ガシェ医師の肖像》です。
画面には、頬杖をついて物憂げな表情を浮かべる男性と、手前のテーブルに置かれた紫色の花が描かれています。
モデルとなったガシェ医師は、オーヴェル=シュル=オワーズで最晩年のゴッホを診ていた医師でした。
自身も絵を描き、多くの画家たちと親しく交流していた人物です。
この肖像画は1990年に日本の実業家によってオークションで約125億円で落札され、当時1枚の絵画として史上最高額となったことでも話題を集めました。

テーブルに置かれた紫色の花は、ジギタリスという植物です。
オオバコ科に属し、和名をキツネノテブクロと呼びます。19世紀当時は心臓の薬として使われていたほか、てんかんの治療にも処方されていました。

このジギタリスを過剰に摂取すると、副作用として視野が黄色く見える黄視症を引き起こすことがあります。
医師、薬、黄色い視界、そして黄色い絵という手がかりがつながり、1981年に医師のT.C.リーが米国医師会雑誌でひとつの説を発表しました。
それは、ゴッホがガシェ医師からジギタリスを処方されており、その副作用によって世界が黄色く見えていたのではないかという見解です。
このほかにも、強い酒であるアブサンや、絵の具に含まれる鉛による中毒を指摘する説が出されました。
年表と手紙に残された答え

苦しみの中で傑作を生んだ天才という物語はわかりやすく、画家の悲劇的な生涯ともよくなじみます。
この説が今も多くの人に信じられているのは、そのためでしょう。
けれど、描かれた作品の記録と病の経過を並べてみると、見過ごせない矛盾が存在することに気づきます。
医学的な仮説が前提としている出来事と、実際の制作のタイミングが噛み合っていないのです。

例えば、最初に描かれた4点の《ひまわり》は1888年8月のアルルで制作されました。
一方で、ゴッホがガシェ医師と初めて出会ったのは、それから1年9か月もあとの1890年5月です。
黄色い絵が次々に生まれていた時期、彼はまだガシェ医師に会ってもいませんでした。
時系列を確かめていくと、仮説と合わない点はほかにもいくつも見つかります。
そして800通以上の手紙には、ゴーギャンを待ちながらひまわりを描いた夏のことや、本人が「青と黄色の交響曲」と呼んだ計画、妹に打ち明けた黄色への思いが残されています。
この先では、年表と手紙から、ゴッホの黄色がどこから来たのかをたどっていきます。
フィンセント・ファン・ゴッホ
ポール・ゴーギャン



















