The yellow house (`The street’) 黄色の家(通り)
1888年

- 寸法
- 72.0 × 91.5 cm
- 技法・素材
- 油彩、カンヴァス
- 所蔵
- ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)
孤独な現実への抵抗と、芸術家たちの理想郷への渇望。 泥臭い排泄物処理の砂が広がる路上に、光り輝く共同体の夢を刻みつけた、希望の宣言。
✦ 見どころ(技法・色彩)
補色関係にある「黄」と「青」の極限的な対比が見どころです。建物の外壁にはクロムイエローなどが使われ、強い日差しを表現しています。空のコバルトブルーは平坦に塗られているのに対し、手前の道路や砂の山には絵具を分厚く塗るインパスト技法が用いられ、物質感を与えています。
✦ この絵の舞台
描かれているのは、フランス南部プロヴァンス地方の都市アルルにあるラマルティーヌ広場です。1888年9月下旬の快晴の昼間、強い太陽光線が街を照らし出しています。画面中央の「黄色の家」はゴッホが借りたアトリエ兼住居で、左側のピンクの建物は彼が通った食堂です。右奥には鉄道高架橋が見えます。
✦ 時代背景
1888年当時のフランスは第三共和政下で、地方都市アルルにも近代化の波が押し寄せていました。鉄道網の拡大によりパリと南仏が急速に結びつき、画面右奥の蒸気機関車はその象徴です。また、市内の清掃や排泄物処理を民間に委託するなど、都市衛生インフラの整備が進められていた時期でもありました。
抜けるような青空の下、バター色の壁と緑の扉を持つ建物が立っています。
手前の道路には、黄色い土の山がいくつも連なっています。
この絵は『黄色の家』として広く知られています。
手前に描かれた砂の山について、長年ある説が信じられてきました。
それは、友人の画家ポール・ゴーギャンを迎えるためのものだという説です。
彼のためにガス灯を引く、その道路工事の土砂だと言われてきたのです。
でも実は、近年の調査でまったく違う事実が判明しました。
この砂の山は、ガス管工事の土砂ではありません。
アルル市が路上に撒くために集めた、清掃用の砂だったのです。
当時のアルルの主要な道路は、小石で舗装されていました。
そこを通る馬車から落ちる馬糞や馬尿を吸収させるため、大量の砂が必要でした。
つまりこれは、都市の排泄物を処理するための泥臭い現実の記録なのです。
絵が描かれた9月下旬の時点で、ガス工事はまだ始まっていませんでした。
1888年5月、フィンセント・ファン・ゴッホはアルルでこの家を借りました。
ラマルティーヌ広場2番地にある建物の、右側の4部屋。
月額15フランの家賃は、弟テオからの送金が頼りでした。
画面の左側に描かれたピンク色の建物は、ヴェニサック食堂です。
彼は毎日ここで食事をとっていました。
経営者の未亡人は、黄色の家の大家でもありました。
右側の高架橋のすぐ先には、親友の郵便配達員ルーランの家があります。
9月下旬、彼はテオからの資金でベッドや椅子を買い揃えます。
ゴーギャンを迎え入れる準備を、急速に進めていました。
彼には夢がありました。
この家を、芸術家たちが共生する「南仏のアトリエ」にすること。
経済的には弟に完全に依存しきっていた彼にとって。
自分の居住空間とアトリエを持てたことは、強い充足感をもたらしました。
9月27日からの3日間。
雲ひとつない快晴の昼間、彼はこの風景を描き上げます。
彼自身が付けたこの絵のタイトルは、『通り』でした。
右奥には、近代化の象徴である蒸気機関車が煙を上げています。
パリにいる仲間たちと自分を繋ぐ、希望の道筋。
彼はこの絵を、理想の共同体の記録として残そうとしました。
この続き:約441文字

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