
- 寸法
- 25.5 × 62.5 cm
- 技法・素材
- カラーリトグラフ
Bosnie-Herzegovine; L’exposition Universelle, Paris
1900年
✦ 見どころ(技法・色彩)
ミュシャ特有のパステル調の穏やかな色彩と、自然界の植物を幾何学的に配置した装飾が特徴です。画面を縁取るようにうねる曲線が、精巧な刺繍が施されたボスニアの伝統的な民族衣装を身にまとう女性の姿を美しく引き立てています。
✦ この絵の舞台
1900年にパリのセーヌ川沿い、オルセー河岸に建設された万国博覧会の「ボスニア・ヘルツェゴビナ館」が舞台です。ポスターは、完成したパビリオンの壁画の前でモデルにポーズをとらせて撮影した写真を下図にして描かれました。
✦ 時代背景
1900年のパリ万国博覧会は、19世紀の技術と芸術の集大成を祝う一大イベントでした。当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、帝国政府は植民地統治の成果をアピールするために単独パビリオンを計画しました。
民族衣装をまとった女性が、ポットとカップの乗ったお盆を手に、静かにこちらを見つめています。
彼女の周りにはピンク色の花々が咲き乱れ、美しい曲線が画面を縁取っています。
アルフォンス・ミュシャといえば、パリの街角を彩った華やかなポスターの数々。
アール・ヌーヴォーの寵児として、消費文化の最先端を走っていた画家です。
この絵も、1900年のパリ万国博覧会のために描かれた宣伝用のお土産ポスター。
洗練された美しい女性像と、パステル調の穏やかな色彩。
いつもの優雅なミュシャのスタイルそのものに見えます。
でも実は、この絵は彼にとって、華やかなパリとの決別の始まりでした。
1900年。
パリ万国博覧会は、新たな世紀の幕開けを祝う巨大なイベントでした。
当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にありました。
帝国政府は、植民地統治の成果を国際社会にアピールしようと企てます。
そのためにボスニアの単独パビリオンを計画し、装飾の総指揮をミュシャに委託したのです。
彼自身もまた、同じスラブ系の出身でした。
ミュシャは準備のため、バルカン半島へと向かいました。
実際の地理環境や人々の生活を直接観察するための、過酷なフィールドワークの旅。
そこで彼が目にしたのは、他民族からの支配に遭いながらも、自らの言葉や伝統を純粋に守り抜こうとするスラブ人の姿でした。
強い衝撃。
パリに戻ったミュシャは、強い内省的危機感を抱きます。
自分は今まで、ビールやビスケットといった商業広告のために、画才を切り売りしてきたのではないか。
抑圧されたスラブの兄弟たちが、あんなにも気高く生きているというのに。
彼は決意します。
残りの人生すべてを、スラブ民族の連帯と自由をテーマにした作品に捧げることを。

出典・参考資料
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