The Artist’s Garden in Argenteuil (A Corner of the Garden with Dahlias) アルジャントゥイユの画家の庭(ダリアの庭の一角)
1873年

- 寸法
- 61 x 82.5 cm
- 技法・素材
- キャンバスに油彩
- 所蔵
- ワシントン・ナショナル・ギャラリー
✦ 見どころ(技法・色彩)
モネが確立しつつあった「筆触分割」が徹底されています。手前のダリアの茂みは、混色を避けた純粋な絵の具の厚いタッチを並置することで描かれています。スカーレットレッドやイエローの花弁をグリーンの葉が囲み、補色対比による眩い輝きを生み出しています。空にはホワイトとグレーの急速な筆跡が施され、空気の揺らぎを表現しています。
✦ この絵の舞台
パリの北西約11キロメートルに位置するセーヌ川沿いの郊外都市、アルジャントゥイユ。モネが借りていた第二の借家の庭園です。モネは自らこの広い庭を造成し、ダリアやバラなどの色彩豊かな植物を植えて視覚的なオアシスを作り出しました。右奥に見えるのは、彼が家族とともに暮らしていた実在の家です。
✦ 時代背景
1870年代のアルジャントゥイユは、パリ市民にとってボート遊びやレジャーの拠点である一方、急激な工業化が進む新興の産業地域でもありました。普仏戦争の敗北とパリ・コミューンの動乱から再起を図るフランス社会において、このような近代的な郊外の生活空間は、新興中産階級が追求する平和な理想像を体現していました。
画面の手前を埋め尽くすように、色鮮やかなダリアが咲き乱れています。
燃え立つようなスカーレットレッド、淡いイエロー。
錆びたようなオレンジ、そしてシェルピンク。
右奥に見えるのは、青いシャッターのある白い家。
フェンスのそばには、寄り添うように立つ二人の人物の姿があります。
画家が愛した、平和で美しい自宅の庭。
印象派らしい、光にあふれた幸福な風景画に見えるでしょう。
でも実は、この絵にはもうひとつの顔があります。
遠く離れた日本の人々を救うため、モネ自身が差し出した一枚なのです。
1871年末、モネはパリ郊外のアルジャントゥイユに定住しました。
普仏戦争とパリ・コミューンの動乱。
凄惨な二重の動乱から逃れ、ロンドンやオランダへ避難していた彼。
戦後に帰国して、ようやく手にした安住の地でした。
当時のアルジャントゥイユは、パリ市民にとってボート遊びやレジャーの拠点。
同時に、急激な工業化が進む新興の産業地域でもありました。
モネは、第二の借家の広い庭を自ら造成します。
ダリアやバラなどの色彩豊かな植物を植え、視覚的なオアシスを作り出しました。
右奥に描かれた3階建ての建物。
アイボリーホワイトの壁に、アクアマリンブルーのシャッター。
彼が家族と暮らした、実在の家です。
中央左側に見える繊細な樹木が、建物の直線的な輪郭を和らげています。
1873年、モネはこの庭を描き上げました。
官展の因習的な審査制度に対抗し、独自の展覧会に向けて準備を進めていた時期。
翌年に開催される、第1回印象派展のことです。
この絵は完成直後の1873年12月。
画商ポール・デュラン=リュエルが直接購入しました。
その後、いくつかの展覧会を経て、ヨーロッパ各地で印象派の魅力を伝えていきます。
1905年にはロンドンのグラフトン・ギャラリーで。
1910年にはウィーンのミートケ画廊で。
そして1924年。
パリのジョルジュ・プティ画廊で、「日本震災救済義援展」が開かれました。
前年の1923年9月1日に発生した関東大震災。
その甚大な被害を受けた日本の人々を、直接的、経済的に支援するためです。
フランスの美術界が総力を挙げて企画した展覧会でした。
モネは、自身の重要な愛蔵作であったこの絵を出品しました。
タイトルを『花の中の家』という詩的な名前に変えて。
浮世絵をはじめとする日本美術。
モネはそこから多くのインスピレーションを受けてきました。
長年の傾倒に対する、深い感謝と連帯の思い。
それが、この行動には込められていたのです。
この続き:約188文字

おすすめの絵画
ほかの画家
内容に誤りがある場合は こちらからご報告ください
このサイトは reCAPTCHA によって保護されており、Google のプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。



















