ウィーンの分離派会館を訪れ、その地下に設けられた特別な展示室に足を踏み入れると、心地よい静寂に包まれます。
むき出しの白い漆喰の余白に、流れるような線とまばゆい黄金が浮かび上がるその光景は、どこか古代の神殿や儀式の場に迷い込んだかのような厳かさをたたえています。
グスタフ・クリムトが描いた壁画《ベートーヴェン・フリーズ》は、高さ約2メートル、全長34メートルを超える巨大な作品でありながら、空間全体に繊細な調和をもたらしています。

この壁画は、その名の通り、一人の偉大な作曲家であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに捧げられたものです。
しかし、なぜ一人の高名な画家が、交響曲を視覚的に表現するために、これほど壮大な空間を作り上げる必要があったのでしょうか?
「分離」に込められた、若きクリムトたちの反乱

出典:Moritz Nähr - tumblr.com, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=45439296による
その答えを紐解くカギが、彼らが名乗った「ウィーン分離派」という少し物々しい名前に隠されています。
英語の『Secession(分離・脱退)』が示す通り、この運動の本質は、当時の保守的な美術界に対する若き芸術家たちの「反乱」でした。
19世紀末のウィーン美術界は、古い伝統やルールをただ繰り返すだけの退屈な既得権益(アカデミズム)に支配されていました。
「こんな古い絵の具まみれの神殿に、自分たちの未来はない」
そう憤ったグスタフ・クリムトをはじめとする若い表現者たちは、自らエリートの肩書を捨てて美術家協会を「脱退=分離」し、全く新しい芸術を自らの手で作り出すことを決意したのです。
その「反乱と同盟」のシンボルとして建てられたのが、黄金の月桂樹のドームをいただく「分離派会館(セセッション)」でした。
そして、彼らが「自分たちの目指す、あらゆる芸術がひとつに溶け合う理想郷」を体現するために選んだテーマこそが、他でもないベートーヴェンだったのです。
建築、彫刻、絵画、そして音楽が溶け合う神殿

1902年春、ウィーン分離派は第14回となる展覧会を開催しました。
彼らが目指したのは、建築、彫刻、絵画、そして音楽をひとつの空間で完全に融合させる「総合芸術」の実現です。
建築家ヨゼフ・ホフマンが設計した会館内部は、単なる作品の展示場ではなく、空間そのものがひとつの信仰を捧げる神殿のように作り上げられました。
その中央に位置するホールの奥にそびえ立ったのが、ドイツの彫刻家マックス・クリンガーが15年の歳月を費やして完成させた、重厚なベートーヴェンの彫刻でした。

出典:Max Klinger 『Beethoven』(1902年) / Wikimedia Commons(Public Domain)
クリムトの壁画は、このクリンガーの彫刻が置かれたホールへと鑑賞者を導く、隣の側廊の壁一面に描かれました。

ホフマンの精緻な空間設計により、壁の上部にはいくつかの開口部が設けられていました。
鑑賞者はクリムトの絵画の物語を視覚的に追いながら、その窓を通して、隣室に佇むベートーヴェンの彫刻を見つめることができる仕組みになっていたのです。
展覧会の開幕前夜には、指揮者のグスタフ・マーラーが自ら編曲したベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章を、管楽アンサンブルを率いて指揮しました。
荘厳な音が空間を満たすなか、人々は絵画と彫刻、そして音楽が完全に溶け合う瞬間を体感したと記録されています。
ヴァーグナーが読み解いた「第九」の旅

この空間の根底に流れていたのは、リヒャルト・ヴァーグナーによる交響曲第9番の物語的解釈でした。
ヴァーグナーは1846年に執筆したプログラムノートで、この交響曲を、人類の魂が幸福を求め、おぞましい障壁と闘いながら、最後には言葉と出会って救済へと至る旅のプロセスとして読み解きました。
クリムトはこの精神的発展段階を、そのまま三方の壁面に翻訳したのです。
物語の始まりを告げる最初の長い壁面には、幸福を求めて虚空を漂う裸体の精霊たちが描かれています。

その下で、飢えや理不尽な現世の不条理に苦しむ弱き人類が、黄金の甲冑をまとった騎士に、自分たちの代わりに闘ってほしいと懇願します。
騎士の後ろには「野心」と「同情」を司る二人の女性が付き従い、人類の幸福のために宿命に立ち向かう決意を固めます。
この黄金の騎士の容貌には、当時分離派と深く響き合っていたマーラーの面影が重ねられていると伝えられています。
会期が終われば壊される予定だった

美しい憧れと誓いから始まったこの旅の先には、おぞましい暗黒の障壁が待っていました。人間の弱さと欲望、そして世界を支配する理不尽な力。
クリムトが描いたこれらの中央の壁面は、現在の私たちが知る名画のイメージとは大きくかけ離れた、赤裸々な表現に満ちていました。
1902年の展覧会で初めて公開された際、そこに描かれた剥き出しの身体や生々しい欲望の表現は、当時の保守的なウィーン社会に激しい反発を巻き起こしました。
あまりの不道徳さに、芸術の品位を汚すものとして新聞などのメディアから手厳しい批判が寄せられたのです。

そして、この壁画を巡る当時の最大の事実は、これが将来にわたって保存されることを全く想定していなかったという点にあります。
本来、この《ベートーヴェン・フリーズ》は、展覧会が閉幕すれば、他の多くの装飾壁画と同様に壁ごと削り落とされて消え去る予定の、極めて仮設的な作品にすぎませんでした。
クリムト自身、一時的な装飾のためだけに、あの大胆な黄金と情熱を漆喰の生壁に直接注ぎ込んでいたのです。
一時的な仮設の壁画として描かれ、発表当時に激しい非難を浴びた本作が、なぜ120年もの歳月を超えて、今日の私たちの前に姿を現しているのでしょうか?
その背景には、世紀末のウィーンを揺るがした大きなスキャンダルと、美術品の所有をめぐる激動のドラマがありました。










