遠ざかる夏の熱気と、地中海の音

朝晩の風に秋の気配が混じるようになり、あんなに強烈だった夏の陽光が、少しずつ遠ざかっていきます。
けれど、ふと目を閉じると、肌を刺すような熱気や、水面で乱反射していた眩しい光が、愛おしい記憶として蘇ることがあります。
同時代のスペインの作曲家イサーク・アルベニスが描いたピアノ曲集『イベリア』の第2曲「港(エル・プエルツォ)」を聴くとき、そこに流れているのはまさにその地中海の潮風と陽光の気配です。
弾むようなリズムと輝かしい音の響きが、一瞬で私達を眩しい水辺へと連れ出してくれます。
キャンバスからあふれ出す眩しい光

スペインの画家ホアキン・ソローリャ(1863–1923)が描いた海辺の絵の前に立つときも、同じような感覚を覚えます。
画面全体からあふれ出す圧倒的な光。
濡れた砂浜、風にはためく衣服、水しぶきを上げて戯れる子どもたち。

そのキャンバスが放つ輝きは、見る者の記憶の奥底にある「夏」を呼び覚まします。
「モネの次に知っておきたい。印象派以上に"光"を操ったスペインの天才」
そう評されるソローリャですが、彼の描く光は、フランスの印象派たちが捉えた光とは本質的に異なるものでした。
モネたちが光を視覚的な色彩の粒として捉えたのだとすれば、ソローリャは一体どのようにして、この眩しい夏の記憶をキャンバスに閉じ込めたのでしょうか?
暗闇から始まった画家の出発点

ソローリャの描く世界は、一見すると光と幸福そのものに見えます。
しかし、彼の絵画の出発点は、光とは真逆の暗闇にありました。
1863年、バレンシアの衣類商の家に生まれたソローリャは、わずか2歳のときにコレラの流行によって両親を同時に亡くします。
孤児となった彼は鍵前工の叔父に引き取られ、教科書の余白にびっしりと絵を描く少年時代を過ごしました。
やがて絵の才能を認められて美術学校へ進み、マドリードのプラド美術館でディエゴ・ベラスケスらスペイン絵画の巨匠たちに没頭します。
そして30代のソローリャが国際的な評価を得たのは、眩しい海辺の景色ではなく、深刻な社会の暗部を描いた「社会写実主義」の絵画でした。

わが子を殺めた罪で手錠をかけられた女性を描いた《もう一人のマルガリータ》(1892年)や、病や障害を抱えた子どもたちが修道士に付き添われて海に入る《悲しき遺産》(1899年)

圧倒的な明暗対比で社会の不条理を告発したこれらの大作は、パリ万博で大賞を受賞するなど、彼に一流画家としての名声をもたらしました。
画家がなぜ影の世界から光へと向かったのか?
その背景にある葛藤や決意を知ることは、美術を単なる知識ではなく、日常の景色をより深く味わう眼に変えていきます。
「光の天才」が求めたもの

社会の悲痛を描き切って頂点に立ったソローリャは、ある時こう語り、二度とこうした暗い社会的テーマを描かないことを誓いました。
「芸術は哀しみや悲劇ばかりを扱うべきではない。人生にはすでにそのような要素が多すぎるのだ」
そうして彼が向かったのが、故郷バレンシアの太陽が降り注ぐ海辺でした。

ソローリャが「光の天才」と呼ばれる理由は、単に太陽を描いたからではありません。
モネに代表されるフランス印象派は、輪郭を水のように溶かし、短いタッチを重ねて光の振動を表現しました。
しかしソローリャは、形態を散乱させません。
ベラスケスから受け継いだ確固たる素描力をベースに、勢いのある太い筆触で、光と影が交差する「一瞬」を掴み取ったのです。

モネたちが光を色彩の粒子として分析したのに対し、ソローリャは一瞬の肉体的なひらめきで光の輪郭を捕まえました。
このような表現の深層に触れる体験は、あなたの鑑賞の時間をより豊かで贅沢なものに変えるはずです。
具体的に、どのようにキャンバス上でその「眩しさ」を作り出したのか。
そしてなぜ、彼の絵は大西洋を越えて人々の心を狂乱させるほど揺さぶったのでしょうか?
ホアキン・ソローリャ




















