
現実の風景と自己の記憶をスタジオで幾何学的に合成し、近代社会における人間の孤立や心理的空白を静止空間として描き出したアメリカン・リアリズムの画家。
Life生涯
エドワード・ホッパーの絵画は、外界の客観的観察を通じて画家自身の内面体験をキャンバス上に転写する試みであった。彼は現実の景観をそのまま写し取るのではなく、個人の潜在意識や記憶を再構成するための媒体として絵画を位置づけた。描写される建築物や室内、人物はすべて、画家の内面世界を表現するための合成されたシンボルとして機能している。
1899年に商業イラストレーターを目指してニューヨーク通信美術学校に入学した彼は、翌年にニューヨーク美術学校へ転校し、ロバート・ヘンライらに師事した。ヘンライからは自らの周囲の世界を描くことや、芸術が画家の内面的状態の足跡であるという思想的基礎を学んだ。その後、パリでの滞在を経てフランス文学や印象派の光の表現に傾倒するが、帰国後のアメリカでは長い不遇の時代を過ごすことになる。1913年の美術展「アーモリー・ショー」で油彩画が1点売れたものの、それ以降は10年以上にわたって油彩画が全く売れず、本人が嫌悪していた雑誌の挿絵や企業広告といった商業イラストレーションで生計を立てていた。
この時期、彼は銅版画であるエッチングの制作に集中する。上空からの俯瞰視点や強い斜光線による対角線の構図、白と黒の鋭い明暗対比を版画を通じて確立していった。1921年に制作された『夜の影』は、その後の彼の作風の基盤となる視覚言語の形成を示している。
1923年の夏、マサチューセッツ州グロスターで同窓のジョセフィン(ジョー)・ニヴィソンと再会したことが、彼の制作環境を変えることになる。彼女の強い勧めで水彩画を制作し、それがブルックリン美術館に購入される。翌年に二人は結婚し、画廊での水彩画の個展が完売したことで、彼は商業イラストの仕事から完全に離れることができた。ジョーは結婚後、彼の絵画に登場するほぼすべての女性像のモデルを務め、作品のスケッチや使用絵の具、購入者などを克明に記録する制作台帳を作成して画家の事業管理を一手に担った。
油彩画へ回帰した彼は、強い日差しや幾何学的な建築の配置、無表情な人物、ガラス窓による遮断といった独自のリアリズムを完成させていく。1925年に制作された『線路脇の家』は、実在のヴィクトリア調住宅を描きながらも、画面手前を水平に切り裂く鉄路によって過去の建築美と近代化の断絶を際立たせた。この作品は1930年、開館間もないニューヨーク近代美術館が永久所蔵品として最初に購入した絵画となった。
彼の生活拠点は、54年間居住したマンハッタンのアトリエと、1930年代以降に毎夏を過ごしたマサチューセッツ州ケープコッドのトゥルーロに二分された。都市の拠点からは高架鉄道や夜間の窓越しに見えるオフィスといった構図が生まれ、地方の拠点からは白く乾いた鋭い自然光や孤立した住宅といった美学が作品に持ち込まれた。1942年に完成した『ナイトホークス』では、深夜のダイナーを曲面ガラス越しに描き、出入口を消去することで外界から遮断された水槽のような空間を作り出した。
晩年になると、画面から物語性が削ぎ落とされ、人物すら消去された空間において、壁や床に差し込む日光の幾何学的平面そのものが主題となっていった。彼はかつて、自分がやりたかったことのすべては家の壁に当たる日光を描くことだけだったと語っている。1966年、死の前年に制作された最後の油彩画『二人のコメディアン』では、舞台上に立つ白い衣装を着た男女が暗い客席に向かって最後のお辞儀をしている。この二人はホッパー自身と妻のジョーであり、自らの人生の舞台からの退場を告げる姿がそこに描かれている。







