1925年7月、フランス・パリ郊外の小さな街アルクイユにあるアパートで、一人の奇妙な作曲家が静かにこの世を去りました。
彼の名前はエリック・サティ。

今ではカフェやCMでもよく聴く『ジムノペディ』や『ジュ・トゥ・ヴ』を作ったことで知られる音楽家です。
27年間誰も入れなかった「密室」に残されていたもの
1925年、天才作曲家サティの死後に見つかったほこりまみれの部屋

彼が亡くなった直後、親友や家族は彼の部屋のドアを開けて息をのみました。
なぜならその部屋は、彼が生きている間の27年間、親友でさえ誰一人として足を踏み入れることを許されなかった「絶対の密室」だったからです。
鍵を開けて入った人々が目にしたのは、異様な光景でした。
ほこりと蜘蛛の巣に覆われた室内には、なぜか数十本もの古い蝙蝠傘や同じ黒いスーツが大量に転がり、重なり合ったピアノの裏側には、忘れ去られた楽譜の山が眠っていました。
大量の傘の奥に隠されていた「157日間の交際記録」と「30年分の手紙」

しかし、部屋の最も奥、固く閉ざされた引き出しの中から見つかったものこそが、彼の人生最大の秘密でした。
そこには、一束の女性の髪の毛、古びた手帳、独立した1枚の紙カードが残されていました。
そのカードには、サティ自身の細い筆跡で、こう書かれていたのです。
「1893年1月14日土曜日、シュザンヌ・ヴァラドンとの私の愛の交際が始まり、同年6月20日火曜日に終了した」
さらに驚くべきことに、その横には、特定の女性にあてて書かれながら、一度も郵便ポストに投函されることなく部屋に溜め込まれていた「30年分の愛の手紙」がびっしりと残されていました。
たった一つの恋が、一人の男の人生を一生縛り続けた理由

サティとシュザンヌがともに過ごした時間は、彼の59年の生涯のうち、たったの「157日間(約5ヶ月)」にすぎません。
なぜ、たった5ヶ月の恋が、
一人の天才作曲家の人生をここまで強烈に縛りつけ、27年間も誰一人部屋に入れないほどの孤独へと追いやったのでしょうか。
時計の針を32年前、二人が運命の出会いを果たした1893年のパリ・モンマルトルへと巻き戻してみましょう。
すべての始まり 1893年、モンマルトルの「深夜3時のプロポーズ」
怪しい酒場で出会った、26歳の貧乏作曲家と27歳の破天荒なモデル

1893年1月14日の土曜日、日付がすっかり変わった深夜3時頃。
パリの芸術家たちが集まるモンマルトルの小さな酒場「オーベルジュ・デュ・クルー」の片隅で、その出会いは訪れました。
当時のサティは26歳。
パリ音楽院を「最悪の生徒」と吐き捨てて飛び出し、夜のカフェでピアノを弾いてその日暮らしの貧乏生活を送っていました。
奇抜なアイデアを持ちながらも、世間からは理解されず、極貧の屋根裏部屋で暮らす孤高の青年でした。
そこへ現れたのが、27歳のシュザンヌ・ヴァラドンでした。

彼女は、貧しい洗濯女の娘として生まれ、幼い頃から生きるためにあらゆる仕事を経験してきた女性でした。
サーカスの空中ブランコ乗りとして活躍したものの、落下事故で大ケガを負って断念。
その後はルノワールやロートレックといった有名画家の「絵のモデル」として働きながら、独学で絵の才能を開花させつつある、野性味あふれる情熱的な美女でした。
「こんな時間に市役所が開いてるわけない」笑われた電撃プロポーズ
酒場でシュザンヌの奔放な魅力と、吸い込まれそうな瞳を目にした瞬間、サティの心は雷に打たれたように撃ち抜かれました。
サティは、彼女が連れの男性と一緒に座っているのもまったく構わず、出会ってからわずか数十分のうちに、いきなりこう叫びました。
「私と結婚してください!」
午前3時の酒場で、会ったばかりの貧乏ピアニストから飛び出した突然のプロポーズ。シュザンヌは呆れかえり、
「こんな深夜3時に市役所が開いているわけがないでしょう?」と笑ってあしらいました。
しかし、世間の常識など吹き飛ばすようなサティの純粋でまっすぐな情熱に、シュザンヌもまた、強く心を惹きつけられていったのです。
アパートの隣同士で始まった、濃密すぎる同棲生活
出会いからわずか2日後の1893年1月16日、シュザンヌはサティが住むコルトー街のアパートを訪ねました。
そしてなんと、彼のすぐ隣の部屋を借りて住み始めたのです。
二人は毎日のように顔を合わせ、夢中で語り合い、互いの部屋を行き来する熱烈な暮らしをスタートさせました。
サティは彼女を親しみを込めて「ビキ(Biqui)」という愛称で呼び、朝から晩まで愛の手紙やメモを送り続けました。
世間から浮いていた二人が、モンマルトルの片隅で出会い、互いの存在に激しくのめり込んでいった瞬間でした。
愛の証拠 ふたりが贈り合った肖像画と「世界で一番短い曲」
シュザンヌだけが描けた、サティの本当の素顔(『エリック・サティの肖像』)

二人が愛し合っていた時間は、ただ甘い言葉を掛け合うだけの時間ではありませんでした。
芸術家同士として、お互いの才能を爆発させる刺激的な日々でもあったのです。
シュザンヌは、サティをモデルにして1枚の油絵を描き上げました。
それが現在、パリの有名美術館(ポンピドゥー・センター)に大切に保管されている『エリック・サティの肖像』です。
緑色の背景の中に立つ若きサティは、メガネをかけ、赤いヒゲを蓄えています。
シュザンヌは、世間からは「変人」扱いされていたサティの奥底にある、鋭く繊細で孤高な素顔を見事に描き出しました。
黒く太い力強い線で描かれたこの絵は、彼女が本格的に油彩画を描き始めた最初期の傑作として、いまも高い評価を受けています。
愛称「ビキ」へ贈られた、たった1分間の愛の楽譜(『Bonjour Biqui, Bonjour!』)

一方のサティも、シュザンヌへの愛を音楽で表現しました。
1893年4月2日のイースター(復活祭)の朝、サティはシュザンヌに小さなおしゃれなプレゼントを贈ります。
それは、演奏しても1分にも満たない、たった4小節だけの超短い曲でした。曲のタイトルは『Bonjour Biqui, Bonjour!(こんにちはビキ、こんにちは!)』。
楽譜を開くと、たった4小節の音符の横の余白に、サティ自身がペンで描いたシュザンヌの可愛らしい横顔のイラストが添えられていました。
そこには「ビキの真正なる肖像」というサティの自筆の添え書きまでついていました。二人の愛の形が、絵と音楽と文字で見事に一つになった、世界で一番贅沢なラブレターだったのです。
情熱的すぎたふたりの衝突と、突然訪れた「最悪の最後」
窓から投げ出された荷物と、激しすぎる束縛

しかし、お互いに強い自我を持つ芸術家同士の恋は、長くは続きませんでした。二人の情熱が激しすぎたからこそ、その愛は次第に「束縛」と「恐怖」へと姿を変えていってしまったのです。
サティのシュザンヌに対する愛は、やがて過剰な独占欲へと変わりました。
彼女がどこへ行き、誰と会っているのかを分単位で監視しようとし、少しでも思い通りにいかないと激しい感情を爆発させました。
二人の部屋からは、昼夜を問わず怒鳴り合う声が響き渡りました。
激しい喧嘩の末に、サティが怒り狂ってシュザンヌの荷物を2階の窓から通りへと投げ捨てたという噂まで街に広がるほど、二人の関係は嵐のように荒れ狂っていったのです。
「このままでは、自分が押し潰されてしまう」
自由を愛するシュザンヌにとって、サティのあまりにも重すぎる愛は、次第に息の詰まる檻(おり)となっていきました。
なぜ二人は、たった5ヶ月で引き裂かれることになったのか?

1893年6月17日土曜日。シュザンヌはついに決断を下します。
サティの留守中に荷物をまとめ、コルトー街の部屋を静かに後にしたのです。
サティが部屋に戻ったとき、そこには誰もいませんでした。
あんなに熱く語り合った空間には、冷たい静寂だけが残されていました。
そして1893年6月20日火曜日。
二人の関係は完全に終わりを告げました。
サティは自分の手帳を開き、震える手でこう書き残しました。
「6月20日火曜日、終了した」
たった157日間で燃え尽きた、あまりにも短く、あまりにも激しい恋。
しかし、本当のドラマは、二人が別れた「その瞬間」から始まったのです。
失恋の激痛に引き裂かれたサティは、一体どんな行動に出たのでしょうか?
アンドレ・ブルトンやジョン・ケージら後世の芸術家たちをも驚愕させたあの「伝説の名曲」は、一体どのようにして誕生したのでしょうか。
ピエール=オーギュスト・ルノワール


















