皆さんは、このショパンの肖像画を見たことがありますか?

もともとは一枚のキャンバスから切り離された、二つの絵なんです。
今回はこの肖像画についての謎と、ショパンとジョルジュ・サンドの9年間の物語を解説します!
切り離された二つの肖像画

パリのルーヴル美術館に、ピアノに向かうショパンの肖像画があります。
少し身を乗り出し、口元に力を込めて鍵盤を見つめる横顔です。
同じ画家が描いたもう一枚の絵が、遠く離れたコペンハーゲンの美術館にあります。
椅子に座り、何かにじっと耳を澄ませている女性の絵です。

この二枚は、もともと一枚のキャンバスでした。
ピアノを弾くショパンの隣に、ジョルジュ・サンドが座っていた。描いたのはウジェーヌ・ドラクロワです。
かつて同じ画面の中で寄り添っていた二人は、いまでは国境を隔てて別々に飾られています。
これは、ともに生きた9年間と、切り離された一枚の絵の物語です。
「感じの悪い女性」と、ドラクロワのアトリエ

1836年、初めてサンドに会ったショパンは、彼女のことを「感じの悪い女性」と呼びました。男装を好み、葉巻を吸う異色の小説家です。
しかし2年後の1838年、婚約の破談に傷ついていたショパンのもとに、彼女の情熱的な存在が近づきます。かつて距離を置いていた二人は、急速に惹かれ合っていきました。

サンドは友人の画家ドラクロワに、二人を並べた肖像画を描くよう持ちかけます。
ドラクロワはアトリエにピアノを運び込み、ショパンを鍵盤に向かわせました。ショパンが自作の旋律を奏でると、サンドは葉巻を手に、静かに耳を澄ませます。
音楽に包まれたアトリエで、ドラクロワは筆を走らせていました。

その一方で、パリの厳しい冬の寒さと病が、ショパンの華奢な体を蝕み始めていました。
療養と静かな環境を求めて、二人は南の島への旅を決めます。
1838年10月の終わり、彼らは地中海に浮かぶマヨルカ島へと旅立ちました。
パルマの光と、届かないピアノ

1838年11月8日、蒸気船エル・マヨルキン号でパルマ港に入港します。同行したのはサンドと子供たち、それに侍女でした。
サボテンとオレンジの木々に囲まれた島で、ショパンはパリの親友に宛てて、こう書いています。

「私はパルマにいます。サボテン、オリーブ、オレンジ、イチジクの木々に囲まれています。空はターコイズのよう、海はラピスラズリのようです。空気は天国のようです」
南国の光に歓喜したのも束の間、異国の現実が彼らを襲います。パルマでの宿探しは難航し、港の近くの旅籠で、硬く薄いマットレスのある2部屋を確保するのが精一杯でした。11月中旬に近郊の借家へ移りますが、12月に入ると激しい雨が続き、冷たい湿気が室内を包み込みます。
パリから送らせたグランドピアノは、関税のトラブルで一向に届きません。重い風邪を引いて激しく咳き込むショパンに、地元の村人たちは警戒の目を向け始めました。
ヴァルデモサの修道院と、ノアンの夏

肺の病気が伝染することを恐れた大家は、借家から二人を追い出します。逃げるように移り住んだのは、山奥にあるヴァルデモサのカルトゥジオ修道院でした。
ズボンを穿き葉巻を吸うサンドを快く思わない村人たちは、病気を恐れて一行を冷たく遠ざけます。
激しい雨漏りと極寒の修道室で、ショパンはパリの親友に書き送りました。

「崖と海のあいだに据え付けられた、巨大な見捨てられたカルトゥジオ修道院。パリのどんな門よりも大きな扉の修道室に、白手袋もせず、髪はぼさぼさで、相変わらず蒼白な私がいるのを想像してください。修道室は高い棺のような形をしていて、叫んでも静寂のままです」
この環境の中で、ショパンは現地で調達した小さなピアノに向かい、遅れて届いたプレイエルとともに『前奏曲集』をまとめあげます。

激しい雨音と静寂の中から「雨だれ」の前奏曲が生まれたと伝えられています。
1839年2月、二人は来たときと同じエル・マヨルキン号でマヨルカ島をあとにしました。マルセイユでの療養を経て、二人はフランス中部にあるサンドの館、ノアンへ向かいます。

ノアンで過ごす夏は、ショパンの生涯で最も穏やかで満ち足りた時間になりました。
緑豊かな庭園に面した部屋で、ショパンは毎日規則正しくピアノに向かいます。

ドラクロワもこの館を頻繁に訪れ、庭に開いた窓から風に乗って漂ってくるショパンの音楽と、バラの香りに満ちた夏をともに過ごしました。
この館で、ショパンの創作は大きな実りを迎えます。
ただ、穏やかな日々の裏側で、別の影が静かに動き始めていました。
その影は、一冊の小説の形をとって現れました。










