Copy of Teofil Kwiatkowski's composition 'Chopin on his deathbed'(テオフィル・クフィアトコフスキの構図『瀕死のショパン』の模写)
1879年
✦ 見どころ(技法・色彩)
当時わずか10歳の少年が紙に描いた、非常に初期の貴重な「素描(紙)」です。クフィアトコフスキが残した、親密で内省的な臨終の構図をそのまま縮小してなぞることで、対象の深い精神性に直接肉薄しようとする意志が示されています。色彩を用いないモノクロームの素描だからこそ、マテイクをも驚かせた研ぎ澄まされたデッサン力と、死の床を包む静けさに満ちた緊迫感が、真っ直ぐに伝わってきます
✦ この絵の舞台
1849年10月、フランス・パリのヴァンドーム広場12番地にある、ショパン最後のフラット(アパート)の一室です。死の淵にあるショパンのベッドを、姉のルドヴィカをはじめ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人、イェウォヴィツキ神父、グジマワ、そしてこの情景をスケッチした画家クフィアトコフスキら、ショパンを愛した亡命ポーランド人コミュニティの親しい人々が静かに囲んでいます。
✦ 時代背景
この模写が描かれた1879年は、ポーランドが周辺国によって分割統治されていた暗黒の時代でした。クラクフに生まれた作者ヴィスピャンスキは、7歳で実母を結核で亡くし、父親のアルコールの問題から叔母夫婦に引き取られるという、過酷な個人的喪失を経験しています。そんな中、彼はポーランド語での講義が密かに維持され、祖国の歴史と文学を徹底的に教え込むユニークな「聖アンナ中学校」に通い、歴史画の巨匠ヤン・マテイクから最初の指導を受けました。祖国を失った同胞たちの集団的哀悼と、彼自身の深い喪失体験が重なり合う中で、この絵は生み出されたのです。
暗い部屋。
死の淵にある男を、人々が静かに囲んでいます。
男の名前は、フレデリック・ショパン。
この絵は、ある高名な画家の構図をそのままなぞった、ただの模写にすぎません。
描いたのは、わずか十歳の少年。 私たちは、そう片付けがちです。
でも実は、これは単なる技術を磨くための、退屈な練習画などではありませんでした。
少年が、自らの深く痛烈な「喪失」を重ね合わせた、祈りの儀式だったのかもしれない。
少年の名は、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ。1869年のクラクフ(16世紀までポーランド王国の首都だった古都)。
彼は十歳でした。
彼が実母マリアを結核で失ったのは、一八七六年のこと。 当時、彼はまだ七歳でした。
さらに、彫刻家であった実父は、アルコールの問題から親としての責任を果たすことができなくなってしまう。 家庭の崩壊。
少年は、叔母のヨアンナとカジミェシュの養子として引き取られます。 その家は、知識人が集まる場所でした。 そこへ、ポーランド歴史画の巨匠、ヤン・マテイクが頻繁に出入りする。 マテイクは、少年の才能を見抜きました。 最初の指導。 彼は、描き始めます。
少年が通った聖アンナ中学校も、特別でした。 支配国によってポーランド語が禁じられた時代。 それにもかかわらず、学校ではポーランド語で講義が行われていた。 教師たちは、生徒に徹底的に、祖国の歴史と文学を教え込んだ。 過酷な支配下で、少年は自らのルーツと、失われた祖国の悲哀を学んでいった。
なぜ、死なのか。 なぞったのは、テオフィル・クフィアトコフスキの原画です。 クフィアトコフスキは、ショパン一家と深い親交を持っていた画家でした。
ショパン自身も、自筆譜に「愛するテオフィル・クフィアトコフスキへ」と書き添えて贈るほどの、深い精神的な友。
一八四九年、パリ。 ショパンの最期を、友人の画家がその場でスケッチした、生々しい「死の記録」。
十歳の少年は、この絵の冷たい死を、自らの手で丁寧になぞり続けました。
母の死。 そして、祖国を奪われた人々が流す、哀悼の涙。 それは、死だった。 二つの暗闇が、十歳の彼の中で、静かに重なり合っていきます。
練習だ、と周りは思った。 しかし、少年は死をみつめました。
少年は、紙の上に死を描き出すことで、自らの引き裂かれた心を救おうとしたのではないでしょうか。
描くことで、生きることを選んだ。

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