1945年、戦争が終わろうとしていた夏のことです。
15歳の少年が、埼玉県の陸軍食糧基地に動員されていました。
半地下壕のような薄暗い宿舎で、兵隊たちに混じって日々を過ごす生活です。
爆音と軍歌。それが、当時の彼の世界を満たしていた音でした。
ある夜、同じ部屋にいた見習士官が、人目を忍ぶようにして一台の手回し蓄音機に針を落としました。
そこから流れてきたのは、軍歌でも、行進曲でもありませんでした。
甘く、優しく、どこか切ない、女性の歌声だったのです。
この一曲が、一人の少年の人生を、根こそぎ変えてしまいます。
少年の名は、武満徹。
後に、西洋音楽の世界で最も知られる日本人作曲家になる人物です。
軍国少年が聴いた、「敵の歌」

このとき蓄音機から流れていたのは、リュシエンヌ・ボワイエというフランスの歌手が歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」でした。
フランスの、愛を歌った歌です。
戦時下の日本で、これは「敵性音楽」でした。
敵国の文化として、聴くことを禁じられていた音楽です。
だからこそ、見習士官は隠れて聴いていました。
見つかれば、ただでは済まなかったでしょう。
そして武満自身は、そのとき軍国少年でした。
「日本は負けるそうだ」と口にした級友を、殴り飛ばしたこともあったといいます。
お国のために、と本気で信じていた少年です。
その彼が、よりによって禁じられた敵の歌に、これ以上ないほど心を揺さぶられた。
爆音と軍歌しかなかった世界に、突然、まったく別の種類の音が流れ込んできた。
武満は後に、この体験をこう書き残しています。
あの歌は意志的に聴こうとしたものではなく、ただ静かに、大きな流れのように自分の肉体へ注がれた。
この時、彼は決意します。
戦争が終わったら、音楽をやろう。
甘い歌が禁じられ、暴力的な音だけが許される。その状況そのものが、少年に大きな問いを残しました。
武満が生涯、平和と音楽は分かちがたく結びついていると考え続けたのは、この夜が出発点だったのかもしれません。
あの一曲は、どんな音楽に変わったのか

戦争が終わり、武満は音楽の道を歩き始めます。
けれど、その道は平坦ではありませんでした。
彼はほとんど独学でした。
音楽教育を受けられる環境になく、ピアノを買うお金さえなかった。
紙や板に鍵盤の絵を描き、それを持ち歩いて、頭の中で音を鳴らしていたといいます。
そして不思議なことに、あの夜に彼を救った甘く優しいシャンソン。
武満が向かったのは、そういうわかりやすく美しい音楽では、必ずしもありませんでした。
彼の出発点となった作品は、当時の批評家から厳しく退けられるような、新しく、難解な響きを持つものだったのです。
あの一曲に救われた少年は、では一体どんな作曲家になったのでしょうか?
そして、戦争のさなかに「敵の歌」に救われたという経験は、彼の音楽に何を残したのでしょうか?



















