練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5「黒鍵」

Étude in G-flat majorOp. 10 No. 51830年作曲
練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5「黒鍵」
フレデリック・ショパン
フレデリック・ショパン

1810–1849 (ポーランド)

フリデリク・ショパンは、19世紀のロマン派音楽を代表するポーランド出身の作曲家であり、その生涯のほぼすべてをピアノ独奏曲に捧げた人物です。

この曲を一言で表すと

黒鍵という限られた地形を駆け抜けながら、ピアノという楽器の新たな可能性を切り拓いた、若きショパンの野心と実験の物語です。

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練習曲 第5番 変ト長調 作品10-5「黒鍵」

曲解説・楽曲分析

どんな場面を描いた曲か ― なぜこのタイトルなのか

右手が黒鍵の上だけを滑るように駆け抜けるこの曲。なぜショパンはこのような極端な制約を自らに課したのでしょうか。

フレデリック・ショパンが遺した『12の練習曲 作品10』は、彼が祖国ポーランドで過ごしたワルシャワ後期の青年期から、ウィーンを経てパリに定着するまでの激動の時代に書かれました。第5番 変ト長調、通称「黒鍵」は、彼がワルシャワを離れる直前の1830年夏に作曲されたと推定されています。この作品は、パトロンや楽譜出版社などの外部機関からの委嘱によって書かれたものではありません。鍵盤楽器における新しい技術的・和声的可能性を開拓し、それまで純粋な身体訓練のための無味乾燥な指の運動とされていた「練習曲(エチュード)」というジャンルを、高度な音楽的詩情を湛えた芸術作品へと高めるという、若きショパンの確固たる野心から自発的に執筆されたのです。

作品10の曲集全体は、ショパンがパリの社交界で親交を結んだ友人フランツ・リストへ献呈されました。ショパンは友人へ宛てた書簡において「私は自分のペンが何を書いているか分からずに手紙を走らせている。なぜなら今、リストが私の練習曲を弾いており、私の頭からまともな思索を追い出そうとしているからだ。彼の演奏法を彼から盗み取りたいほどだ」と述べており、この献呈が単なる形式的なものではなく、深い芸術的敬意に基づいていたことが窺えます。

さて、「黒鍵」という極めて有名な愛称ですが、これはショパン自身が名付けたと言われがちですが、実際は異なります。ショパンは自身の絶対音楽的な美学に基づき、自作にロマン派風の文学的あるいは具体的な副題が付与されることを極めて嫌っていました。この愛称は、右手の奏する高速な旋律が物理的にほぼ完全に黒鍵のみで構築されているという視覚的かつ即物的な驚きから、後世のパフォーマーや楽譜校訂者、批評家によって付けられた俗説に過ぎません。

また、ショパン自身はこの曲を極めて気に入り、最高のインスピレーションが発揮された傑作とみなしていたと言われがちですが、実際の実像は違います。1839年、クララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がパリのコンサートでこの曲を取り上げた際、ショパンは「黒鍵用の曲だという特殊な試みを知らない一般の聴衆にとっては、最も興味の湧かないエチュードであるはずなのに」と冷淡な反応を示しました。彼にとってこの曲は、技術的な新機軸を検証するための実験的な位置づけであり、単なる聴きやすい小品として消費されることへ知的な反発を抱いていたのです。

物語 ― この曲で何が起きているのか

全体はわずか85小節という極小の枠組みでありながら、緻密に均整の取れた三部形式にコーダ(終結部)を付加した無駄のない構造物として設計されています。

曲が始まると、変ト長調の明るく軽快な響きの中で、強音と弱音の対比が支配的な提示部が展開されます。まるで気まぐれな問いかけと、弾力的な応答が繰り返されるような情景です。当時のプレイエルやエラールといった歴史的ピアノ(フォルテピアノ)で演奏されると、現代のピアノとは異なる、ガラス質の極めて軽くきらびやかな、真珠のような響きが自然に構築されたことでしょう。

続いて中間部に入ると、調性は変ニ長調へと移り、それまでの静的なシンメトリーがあえて破壊されます。規則的なフレーズが分裂し、非対称で不規則な波が押し寄せてきます。ここでは右手の細かい音符の連なりに様々な動機的変形が加えられ、変化に富んだ運動性が生み出されます。

そして再現部では、再び冒頭のテーマが戻ってきます。しかし、そのまま力強く終わるかと思いきや、突然の極端な弱音化を伴って終止へと向かいます。最後のコーダでは、両手が完全に同じ五音音階に統合され、力強い下行オクターヴで潔く幕を閉じます。

この曲の「右手が黒鍵のみを疾走する」という明快なアイデアと親しみやすい美しさは、後世の多くの作曲家やピアニストを刺激し、数多くの派生作品を生み出しました。特にレオポルド・ゴドフスキーは、この曲に執拗なまでの執着を示し、7つもの独自のバージョンを書き残しています。左手だけで演奏する厳格な編曲や、すべてを白鍵に移調して手の物理的なトポロジーを完全に反転させたアイロニカルな試みなどです。さらにゴドフスキーは、この「黒鍵」の右手と、別の練習曲「蝶々」の右手を、一人のピアニストが左右の手で完全に同時に演奏するという驚異的なポリフォニック・ハイブリッド曲『バディナージュ(戯れ)』までも生み出しました。これは単なる曲芸ではなく、二つの曲が内包する和声構造と推進力を極めて高い次元で融合させた、音楽史に残る傑作です。

近代以降、この曲はピアニストの超絶技巧と詩的な解釈力を測るための試金石となりました。アルフレッド・コルトーはテンポを柔軟に伸縮させてフランス風のエスプリを体現し、ウラディミール・ホロヴィッツは極めて俊敏で鋭いタッチでヴィルトゥオジティの極限を提示しました。一方でマウリツィオ・ポリーニは感傷を完全に排除し、機械のような完璧な均等性でこの曲を峻厳な抽象的音響構造物へと昇華させています。

楽曲分析 ― 制限された鍵盤から生まれる近代和声の萌芽

ここでは、この曲の構造的な仕掛けを3つの観点から紐解いていきます。

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この続き:約2,569文字

  • ・「黒鍵」の名付け親の正体
  • ・右手が白鍵を弾くという誤解
  • ・親指で黒鍵を弾くタブー破り

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