Premium

舟歌 嬰ヘ長調 作品60

Barcarolle in F-sharp majorOp. 601846年作曲
舟歌 嬰ヘ長調 作品60
フレデリック・ショパン
フレデリック・ショパン

1810–1849 (ポーランド)

フリデリク・ショパンは、19世紀のロマン派音楽を代表するポーランド出身の作曲家であり、その生涯のほぼすべてをピアノ独奏曲に捧げた人物です。

この曲を一言で表すと

病と孤独の淵にいたショパンが、自らの内面に築き上げた理想の水上世界と、限界を超えて解き放たれる歌の物語。

音源を聴いてみる

舟歌 嬰ヘ長調 作品60

曲解説・楽曲分析

どんな場面を描いた曲か ― なぜこのタイトルなのか

目を閉じて、波の揺らぎを感じてみてください。この曲は、イタリアのヴェネツィアでゴンドラ乗りが歌う民謡「舟歌(バルカローレ)」に由来するタイトルを持っています。19世紀初頭にはロマン派の性格小品として人気を集めていたジャンルであり、ショパンもオペラやメンデルスゾーンの作品からその意匠を受け継ぎました。しかし、この曲は単なる素朴な舟歌の枠を大きく超え、8分の12拍子という極めて息の長い、雄大にうねる波の運動を内包する独自の音響世界を作り上げています。

この曲は、恋人たちが密やかなゴンドラの中で交わす愛の情景を描いたものだと言われがちですが、実際は少し異なります。ショパン自身は生涯において、ヴェネツィアの地を踏んだことは一度もありませんでした。彼が体験した唯一のイタリアの水辺は、悪天候による過酷な船旅だけであり、ロマンティックなゴンドラの感傷など皆無だったのです。さらに彼は、純粋な器楽曲に文学的・絵画的な物語を意図的に投影することを「品格を欠く行為」として強く嫌っていました。

この曲が書かれた1845年から1846年にかけて、ショパンは肺結核の悪化による極度の衰弱と、恋人ジョルジュ・サンドの家族をめぐる激しい対立という精神的苦痛のさなかにありました。計画されていたイタリア旅行も、経済的な逼迫と健康状態の不良を理由に立ち消えとなってしまいます。外界から隔絶されたフランス中部の別荘ノアンの自室で、彼は脳内に理想化された水上の世界に深く没入していったのかもしれません。現実のヴェネツィアではなく、彼自身の内省的な創作衝動によって生み出された、追憶と憧憬の海がここに広がっているのです。

物語 ― この曲で何が起きているのか

音楽は、静かな水面に波紋が広がるように始まります。導入部を経て、左手が刻む波のうねりの上に、右手がヴェネツィアの船頭の歌を抽象化したような旋律を歌い出します。それはまるで、ソプラノとテノールの二重唱のように響き合います。主調である嬰ヘ長調の穏やかな光に包まれた水面は、やがて少し波立つような不安定なリズムへと変化し、調性も次々と移り変わっていきます。

ささやくように提示された旋律は、次第に輝かしさを増し、高音域の宙へと霧散するように上昇していきます。そして、嵐の前の静けさのような完全な沈黙の中で、超高音域の清澄なトリルが響き渡ります。この極限まで希薄になった音響空間は、まるで風が完全に止んだ水面、あるいは重力を失って空へと昇っていく魂のようです。

その後、かつてささやくように歌われた主題が、今度は圧倒的な音の厚みと力強い伴奏を伴って、感情の爆発として戻ってきます。最後は、不協和音がぶつかり合いながらもカタルシスを伴って解決し、きらめくような下降スケールを経て、力強い4つの和音で幕を閉じます。このショパン特有の水響的エレガンスは、後にガブリエル・フォーレの『13の舟歌』や、ドビュッシー、ラヴェルといった印象派の作曲家たちが描く「水」の音楽の源流となっていきました。

楽曲分析 ― 仮想のオーケストラと解き放たれる声

この曲の奥深さを知るために、ショパンがピアノという1台の楽器にどのような仕掛けを施したのか、3つの観点から紐解いてみましょう。

この続きはプレミアム限定です

この続き:約2,627文字

  • ・ヴェネツィアの風景画という通説の嘘
  • ・楽譜に記された謎の言葉の本当の意味
  • ・フォルティッシモの指示に隠された真実
  • ・ピアノ1台でオーケストラを鳴らす魔法

この物語の結末を含む、すべての記事が読み放題

¥07日間の無料体験

459本の物語・絵画・名曲が、すべて読み放題

Google で続きを読む
または

登録すると利用規約・プライバシーポリシーに同意したものとみなされます

  • ・7日間は完全無料。期間内の解約なら請求は発生しません。
  • ・8日目以降は月額 ¥980(税込)。マイページからいつでも解約可能です。
  • 52本ストーリー記事
  • 362点解説つき絵画
  • 45曲名曲ライブラリー
  • マイノート機能無制限

既にアカウントをお持ちの方は ログイン

フレデリック・ショパンの名曲ライブラリーへ

あなたのノート

この曲から感じたこと・学んだことを、美術手帳に残しておきましょう。

ノートを書くには登録が必要です。

無料で登録する

このサイトは reCAPTCHA によって保護されており、Google のプライバシーポリシーと利用規約が適用されます。


内容に誤りがある場合は こちらからご報告ください

同じ時代の絵画解説を読む

音楽とアートが、
あなたを待っている。

芸術の物語を通じて自分だけの世界を広げていこう。
最新記事の更新をメールでお知らせします。

無料登録で読む