ジャン=フランソワ・ミレー

Life生涯

ジャン=フランソワ・ミレーは1814年、ノルマンディー地方のグルシー村に生まれた。実家は土地を所有する裕福な自営農家であり、彼は幼少期から伯父の神父のもとでラテン語を学び、ウェルギリウスなどの古典文学を原文で読む教養を身につけていた。19歳で画家を志してシェルブールで絵画を学び、25歳のときに奨学金を得てパリへ上京する。美術学校エコール・デ・ボザールでは歴史画の大家ポール・ドラローシュの指導を受けたが、ローマ賞のコンクールに落選し、奨学金も打ち切られてしまう。極度の貧困に陥った彼は、数フランで請け負う街頭の肖像画や看板描き、あるいはフランソワ・ブーシェなどの様式を踏襲した華やかなロココ調の小品を描いて生計を立てていた。

1848年の二月革命とパリでのコレラ流行が、彼の制作の方向性を変えることになる。同年の展覧会サロンに、穀物を箕で選別する無名の労働者を描いた《箕くう人》を出品し、これが政府に買い上げられた。翌1849年、ミレーは家族とともにフォンテーヌブローの森の端にあるバルビゾン村へ移住する。以降、彼はこの地の素朴な風景と農民の日常を主題に据えるようになった。

1850年のサロンに出品された《種をまく人》は、暗い土を力強く踏みしめて種を蒔く農夫の姿をキャンバスいっぱいに描いた作品である。当時の美術界では、歴史画や宗教画が最も上位に置かれ、農民の労働は滑稽な風俗画や理想化された田園風景として描かれるのが通例だった。しかしミレーは、ルーヴル美術館で研究したニコラ・プッサンの厳格な構図や、ミケランジェロの力強い筋肉構造、ディエゴ・ベラスケスの明暗法といった伝統的な技法を、現実の農民の姿に応用した。保守派の批評家たちはこの作品を「社会主義の扇動」として激しく非難したが、ミレー自身は政治的な運動から距離を置き、旧約聖書や古典詩に通底する人間の宿命として労働を捉えていた。

バルビゾンでの生活も決して楽なものではなく、地元のパン屋への支払いが滞るほどの困窮が続いた。1850年に画商のアルフレッド・サンシエと協定を結び、定期的な作品の提出と引き換えに毎月の手当と画材を受け取るようになる。この時期に制作された《落ち穂拾い》は、地主の収穫が終わった後に残された麦穂を拾う最下層の農婦たちを前面に描いたものである。また、夕暮れの平野で教会の鐘の音に合わせて祈る夫婦を描いた《晩鐘》もこの時期に手がけられた。

1864年、夕陽を背に羊の群れを従える少女を描いた《羊飼いの少女》がサロンで1等メダルを受賞すると、批評家と大衆の双方から称賛を集め、ミレーの経済状態は安定に向かう。パトロンからの大口の注文も入り、晩年の関心は人物中心の構図から、光や大気、季節の移ろいといった自然の生命力そのものの表現へと移っていった。実業家から依頼された連作の一点《春》では、通り雨が去った後の虹と萌え出づる樹木が瑞々しく描かれている。

1875年に60歳で世を去った後、ミレーの作品は美術市場で価格が高騰した。1889年の競売では、《晩鐘》が当時の近代絵画史上最高額となる55万3000フランで落札されている。この巨額の取引の一方で、未亡人や遺児たちが困窮した生活を送っていた事実がフランス社会に衝撃を与え、芸術家や遺族が再売却時の利益の一部を受け取れる「追及権」という法制度が1920年に世界で初めて制定される契機となった。現在、《晩鐘》や《落ち穂拾い》はパリのオルセー美術館に展示され、《種をまく人》の主要なバージョンはボストン美術館や日本の山梨県立美術館に収蔵されている。彼が描いた農民の姿は、後にフィンセント・ファン・ゴッホによって30点以上模写され、次の時代の画家たちのキャンバスへと引き継がれていった。

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