
ルネサンス以来の遠近法を解体してキュビスムを創始し、異素材を画面に貼るコラージュ技法を発明することで、絵画を外界の模倣から自律した物体へと変えた造形芸術家。
Life生涯
1881年、スペイン南部のマラガに生まれたパブロ・ピカソは、美術教師の父から体系的なデッサンと油彩技法を学んだ。十代半ばでバルセロナの高等美術学校の編入試験に一週間で合格し、1897年には病床の患者と医師を描いた社会写実主義の大作『科学と博愛』でマドリードの全国美術展名誉賞を受賞する。初期の彼は、医学的な実在への関心と伝統的なアカデミズムの技法に忠実な制作を行っていた。
1900年に初めてパリを訪れた後、彼の作風は周囲の状況に呼応して変化していく。1901年に親友カルレス・カサヘマスがパリで自殺した出来事は、彼の制作に明確な変化をもたらした。極度の困窮の中で、死や貧困といった主題を青色の単色調で描く「青の時代」が始まる。1904年にパリのモンマルトルにあるアトリエ集合住宅「洗濯船」に定住し、フェルナンド・オリヴィエと同居を始めると、サーカスの芸人などを温暖な色合いで描く「バラ色の時代」へと移行した。
1907年、バルセロナの娼家を題材にした『アヴィニョンの娘たち』を制作する。ここで彼は非西洋のイベリア彫刻やアフリカの面具の構造を取り入れ、ルネサンス以降の西洋絵画が守ってきた単一視点の透視図法を解体した。続いて画家ジョルジュ・ブラックと協働し、対象を幾何学的な小さな面へと細分化する「分析的キュビスム」を展開する。両者は互いの作品の署名を削れば判別できなくなるほど緊密に共同研究を行い、視覚的な情報を単一の平面上に再構築する手法を確立していった。
1912年、『籐椅子の皿のある静物』において、籐椅子の網目が印刷された油布を画面の下半分に貼り付け、周囲をロープで枠取る手法を発表する。新聞紙や実物素材を画面に直接組み込むこのコラージュ技法により、絵画は外界の光景を投影する虚構ではなく、現実の物質的な実体として提示された。同時期に画商ダニエル=アンリ・カーンヴァイラーと独占販売契約を結んだことで、無名時代の経済的困窮から脱し、作品を安定して市場へ供給する体制が整った。
1917年、ジャン・コクトーの誘いでイタリアへ渡り、ロシア・バレエ団の演目『パレード』の舞台美術を担当する。翌年に同団のダンサーであるオルガ・ホフロワと結婚すると、ブルジョワ的な社交界での生活が始まり、整然とした輪郭線と量感を持つ「新古典主義」の作風を示した。1920年代末からは、密かな愛人関係にあったマリー=テレーズ・ウォルターをモデルに、有機的な形態の歪曲や変容を取り入れたシュルレアリスム(超現実主義)的なアプローチを展開していく。
1937年、スペイン内戦においてナチスドイツがゲルニカへの無差別爆撃を行う。これを受け、パリ万国博覧会のスペイン館のために大壁画『ゲルニカ』を制作した。写真家のドラ・マールが制作過程を記録する中、モノクロームの画面に傷ついた馬や叫ぶ母親、牡牛などのモチーフを配置し、戦争の惨禍を可視化した。第二次世界大戦中もナチス占領下のパリにとどまり、屋外での発表を禁じられながらアトリエで密かに制作を継続した。
戦後の1946年、南仏のヴァロリスに移住する。地中海の強い光と伝統工芸の風土の中で、マドゥーラ工房での本格的な陶芸制作を開始した。1950年代以降はカンヌやムージャンに邸宅を構え、17世紀スペインの画家ヴェラスケスの『ラス・メニーナス』など、過去の巨匠の作品を独自の視点で分解し再解釈する連作に取り組む。1973年に91歳で世を去るまで荒々しく素早い筆触による身体表現を続け、その作品群は現在もバルセロナやパリのピカソ美術館などに収蔵されている。


