ヒルマ・アフ・クリント

Life生涯

1862年にストックホルム郊外で生まれ、スウェーデン王立美術院で伝統的な描画法を学んだ。卒業後は肖像画や風景画を手がけ、獣医師の専門書のために精密な医学解剖図を描いて報酬を得るなど、堅実な具象画家として活動していた。

彼女の関心は、目に見える現実の描写だけにとどまらなかった。1896年、同年代の女性芸術家たちと精神主義グループを結成し、毎週集まって瞑想やトランス状態での自動手記(無意識の状態で文字や絵を描く手法)を実践するようになる。この集団的なセッションを通じて、彼女は独自の視覚言語を育んでいった。

1906年秋、彼女は現実の客観的な対象を持たない絵画の制作に着手する。降霊会で高次の存在から霊的な世界のメッセージを伝える神殿の絵画を描くよう命じられたことがきっかけだった。ここから彼女の画面は、植物の成長を思わせる有機的な曲線や渦巻き、鮮やかな色彩を用いた幾何学的な図像へと大きく変化する。1907年には、人の生涯の段階をテーマにした高さ3メートルを超える巨大な紙の作品群を完成させた。

彼女の制作は、同時代の科学的な発見とも結びついていた。1890年代以降に発見されたX線や放射能、原子理論といった目に見えない物理的な力への関心が、彼女の絵画に論理的な構造をもたらしていく。1916年以降の作品では、分光された円や三角形、精密なグリッド構造が画面を支配するようになった。物質の最小単位である原子の中に、宇宙全体と同じエネルギーの波動が存在することを、同心円や放射線を用いて証明しようと試みている。

1920年に同居していた母が死去すると、彼女の表現手法は再び変化する。油彩によるはっきりとした輪郭線をやめ、水で湿らせた紙に絵の具を浸透させる水彩画の手法を取り入れた。これにより、植物の外見ではなく、そこから発せられる動的なエネルギーの場を写し取るような画面が作られていった。

彼女はこうした非具象の作品群を、画廊や近代美術の展覧会で発表することはなかった。商業的な絵画や解剖図の制作、そして実家からの資産で生活と制作費をまかない、千点を超える作品を完全に非売品として手元に置き続けた。1908年にアトリエを訪れた思想家ルドルフ・シュタイナーから、こうした絵画は現代人には理解されないと示唆されたこともあり、彼女は自身の作品を未来の人類に委ねる決断を下す。

晩年は学術都市ウプサラやルンドに移り住み、静かな環境の中で2万6000ページに及ぶ自身の手記をタイプライターで打ち直し、索引をつける作業を進めた。1944年に81歳で世を去る際、彼女は死後20年間は作品を一切公開してはならないという指示を残した。現在、彼女が残した膨大な作品と手記は財団によって一括管理され、ストックホルム近代美術館に寄託されている。

音楽とアートが、
あなたを待っている。

芸術の物語を通じて自分だけの世界を広げていこう。
最新記事の更新をメールでお知らせします。

無料登録で読む