IgorStravinsky
3度の劇的な作風変容を通じて、20世紀音楽の歴史を書き換えた革命家
イーゴリ・ストラヴィンスキーは、不協和音と変拍子を駆使したバレエ音楽『春の祭典』などで近代音楽のパラダイムシフトを引き起こし、生涯に3度の劇的な作風変容を遂げたロシア出身の作曲家です。サンクトペテルブルク大学法学部に在籍しながら、ロシア五人組の巨匠リムスキー=コルサコフに管弦楽法や対位法を徹底的に師事しました。正規の音楽院を出ていないことから「野性的な独学の天才」と言われがちですが、実際には帝国随一の大家から厳格な指導を受けていました。
彼のキャリアは、興行主セルゲイ・ディアギレフとの出会いによって大きく動き出します。1909年に見出されると、バレエ・リュスのために『火の鳥』や『ペトルーシュカ』を次々と作曲し、国際的な名声を確立しました。しかし、二つの世界大戦やロシア革命といった激動の時代は、彼に大オーケストラから室内楽編成への移行を余儀なくさせます。さらに1938年から翌年にかけて、結核により長女、妻、母を相次いで失うという深い悲しみに直面し、戦火を逃れてアメリカ合衆国へと移住しました。
彼の創作現場は、常に自律的な構造の探求とともにありました。「食欲が食べることで湧いてくるように、作業こそがインスピレーションをもたらすのである」と自伝に記した通り、ピアノに向かって音を確かめながら作曲を進めました。1913年の『春の祭典』初演では、過激な音楽のせいばかりでなく、ニジンスキーの不格好な振付や観客同士の対立が引き金となり、音楽が聞こえなくなるほどの歴史的大騒動が起きたと伝わります。
晩年には、助手ロバート・クラフトを通じて十二音技法(セリエリズム)を研究し、70代にして再び作風を旋回させました。無節操に流行を追う「カメレオン」と揶揄されることもありましたが、その根底には「制約が狭ければ狭いほど、自由はより意味深いものとなる」という一貫した美学がありました。感情の描写手段に陥っていたロマン派音楽の風潮を解体し、音楽自体の構造を自律的に表現する即物主義的なアプローチは、現代の音響思考の地平を切り拓く中核的な功績として評価されています。
作風の変遷 ― 自ら課した制約の中で自由を求めた軌跡
ストラヴィンスキーの初期は、師リムスキー=コルサコフから受け継いだ色彩豊かな管弦楽法と、ロシアの伝統的な民俗性を融合させた「原初的ロシア様式」の時代です。興行主ディアギレフの委嘱で誕生したバレエ音楽『火の鳥』や、長三和音がぶつかり合う斬新な和音を用いた『ペトルーシュカ』によって、彼は一躍時代の寵児となりました。そして1913年の『春の祭典』では、強烈な不協和音と変拍子の連続による打撃的なリズムを打ち出し、近代音楽の文脈を根本から粉砕しました。
第一次世界大戦やロシア革命による混乱の中、彼は大編成のオーケストラから離れ、過去の音楽様式との対話を図る「新古典主義」へと移行します。18世紀の旋律断片を現代的な和声で再編纂したバレエ音楽『プルチネルラ』はその出発点となりました。この時期の彼は、言語から日常的な情緒を削ぎ落とす試みも行っています。ジャン・コクトーと協働した歌劇=オラトリオ『エディプス王』では、テキストをあえて古代ラテン語に翻訳し、逃れられない運命を硬質な音響構造として表現しました。
第二次世界大戦後にアメリカへ定住した彼は、70代にして三度目の大きな転換を迎えます。助手ロバート・クラフトを通じてアントン・ヴェーベルンらの緻密な楽譜構造を分析する中で、十二音列の幾何学的構造に自らが求める「厳格な自律的制約」の究極形を見出しました。長年のライバルであったシェーンベルクの死後に無調前衛派に降伏したと言われがちですが、実際には彼固有の推進力あふれるリズムを維持したまま、セリエリズム(十二音技法)を独自の表現へと昇華させていったのです。
伝説の裏側 ― 逮捕の噂とロマンスの真相
ストラヴィンスキーの生涯には、その劇的な音楽性ゆえか、事実とは異なる数多くの伝説がまとわりついています。その代表的なものが、アメリカ国歌『星条旗』の編曲にまつわる逮捕説です。1944年にボストン交響楽団を指揮した際、前衛的な不協和音で国歌を改変したため、国家象徴冒涜の容疑で警察に逮捕され、マグショット(逮捕写真)が残っていると言われがちです。しかし実際には、州法違反の可能性について警告を受けた事実はあるものの、逮捕の記録は存在しません。出回っている写真は、1940年に居住ビザを申請した際の身元確認用の公式写真に過ぎないことが分かっています。
また、ファッションデザイナーのココ・シャネルとの情熱的なロマンスも、広く信じられている通説の一つです。1920年、亡命生活で困窮していた彼の一家をシャネルが郊外の別荘に招き入れ、二人が密かに愛人関係に落ちたと語られることがあります。確かにシャネルが居住空間を提供し、『春の祭典』再演のための資金や衣装デザインを援助したパトロンであったことは歴史的事実です。しかし、二人に肉体関係があったことを示す日記や密書などの一次資料は確認されておらず、後年のフィクション小説や映画によって誇張された伝承に過ぎません。
彼は「音楽は何も表現できない」という言葉を残したため、感情を軽蔑する冷酷な人物と見なされることもありました。しかしその真意は、音楽を過度な感情描写の道具として扱うロマン派の風潮を批判し、音楽自体の構造の美しさを主張することにありました。数々の伝説の裏には、常に音楽の純粋な形を追い求めた彼の真摯な実像が隠されているのです。
- 1882
ロシア帝国のオラニエンバウムにて誕生する
- 1902
リムスキー=コルサコフに自作の譜面を見せ、私立指導を受け始める
- 1910
パリでバレエ『火の鳥』が初演され、国際的成功を収める
- 1913
バレエ『春の祭典』初演。場内が音楽が聞こえないほどの大騒動となる
- 1914
第一次世界大戦の勃発によりロシアへ帰国できなくなり、スイスへ移住する
- 1920
フランスへ移住し、バレエ『プルチネルラ』を初演する
- 1938
結核により長女リュドミラを失う(翌年には妻と母も相次いで死去)
- 1939
第二次世界大戦の開戦に伴い、アメリカ合衆国へ移住する
- 1948
指揮者ロバート・クラフトと出会い、後にセリエリズムの研究を加速させる
- 1971
ニューヨークにて心不全のため逝去する
私は音楽とは、その本質において、いかなるものをも表現する力を持っていないと考えている……表現は音楽の固有の性質では決してない。
私の自由は、私自身が各試みにおいて設定した狭い枠組みの中で動き回ることにある……制約が狭ければ狭いほど、また障害に囲まれれば囲まれるほど、私の自由はより大きく、より意味深いものとなる。
食欲が食べることで湧いてくるように、作業こそがインスピレーションをもたらすのである。
私はピアノに向かって作曲する。そしてそれを後悔していない。指は軽視されるべきではない。指こそが偉大なインスピレーションの源なのだ。
『春の祭典』を書いた時、私は神の管(器)に過ぎなかった。私の耳に聞こえてきた音をそのまま書き留めただけだ。

ニコライ・リムスキー=コルサコフ
Relation: Teacher
サンクトペテルブルク等で管弦楽法や対位法を徹底的に指導した。

セルゲイ・ディアギレフ
Relation: Friend & patron
バレエ・リュスの興行主。『火の鳥』などを委嘱し世界的成功へ導いた。

アルノルト・シェーンベルク
Relation: Rival
20世紀音楽の二大潮流を象徴。ロサンゼルスで近所に住むも交流を断った。

ロバート・クラフト
Relation: Friend & patron
1948年に助手となり、晩年の十二音技法への作風旋回に決定的な役割を果たした。

ジャン・コクトー
Relation: Friend & patron
歌劇『エディプス王』の台本を手掛け、文学テキストを音楽的構造体へ転化させた。
