
Johann SebastianBachヨハン・セバスティアン・バッハ
ドイツ·1685 – 1750
過酷な労働環境のなかで対位法を極め、後期バロックを集大成した職人
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀の神聖ローマ帝国で活動し、中世から続く多声的な対位法と近代的な和声の仕組みを高度に統合して、後期バロック音楽を集大成した作曲家です。後世のロマン主義時代には「西洋音楽の父」や「神がかった孤高の天才」として神格化されがちですが、実際の彼は地方の教会や宮廷に雇われ、日々の職務遂行と勤勉な技術修練を作曲の根拠とする、徹底した職能音楽家でした。
彼の生涯は、雇い主である地方自治体や教会参事会との間に生じる、報酬や人員配置を巡る絶え間ない労務摩擦とともにありました。1717年にはヴァイマル宮廷の君主に強硬に辞意を申し出たため、約1ヶ月間も投獄されるという事態を経験しています。さらに、ライプツィヒの音楽監督に就任した後の1730年、旧友ゲオルク・エルトマンへ宛てた手紙のなかで「当地の当局は音楽に対して風変わりで関心が薄く、その結果私は絶え間ない不快感、嫉妬、迫害の中で生きねばなりません」と、過酷な就労環境への不満を生々しく吐露していました。
そのような厳しい現実のなかでも、バッハは自らの芸術理念を見失うことはありませんでした。若き日の1708年、ミュールハウゼン市参事会へ提出した辞任願のなかで、彼は「整然とした教会音楽」を演奏することこそが自らの終局目標であると力強く宣言しています。また、家庭内では安らぎを見出しており、同じくエルトマン宛の手紙で「現在の妻は大変澄んだソプラノを歌います」と記したように、再婚した妻アンナ・マグダレーナや子どもたちとともに豊かな音楽環境を築きました。そこから『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』のような、教育的でありながらあらゆる調性を網羅する画期的な作品が生み出されていったのです。
晩年のバッハは白内障による著しい視力低下に見舞われ、巡回していたイギリス人眼科医による手術の失敗が引き金となってこの世を去りました。暗いろうそくの光の下で作曲を続けたための眼精疲労だと言われがちですが、実際は不衛生な施術による重篤な眼内感染症と脳卒中が原因でした。生前は新しい世代の批評家から「過度に作為的」と批判されることもありましたが、彼が苦難の職務のなかで築き上げた数学的で神学的な音楽の秩序は、決して失われることはありませんでした。職人として現実社会と闘いながら組み上げられたその精緻な音響体系は、今なお人類普遍の遺産として私たちの心を揺さぶり続けています。
作風の変遷 ― 職務と信仰が導いた対位法の極致
バッハの作風は、彼が就いた職務の性質と密接に結びつきながら発展していきました。初期のアルンシュタットやミュールハウゼン時代には、オルガニストとしての活動が中心でした。この時期には、北ドイツの巨匠ディートリヒ・ブクステフーデのもとへ約400キロの道のりを徒歩で赴き、オルガンの即興演奏や聖楽の技法を吸収しています。若き日の情熱的な徒歩旅行と言われがちですが、実際は当時の音楽家ギルドの伝統的な「遍歴の旅」であり、技術習得と就職活動を兼ねた現実的なものでした。この時期の経験は、後の壮大なオルガン作品の基礎を築くことになります。
中期のヴァイマル時代からケーテン時代にかけては、宮廷での職務が彼の作風を大きく広げました。ヴァイマルではアントニオ・ヴィヴァルディらの協奏曲スコアを鍵盤用に編曲し、イタリアの明るい調性様式を取り入れます。続くケーテン時代には、音楽を深く理解する君主のもとで恵まれた環境を与えられ、『ブランデンブルク協奏曲』や『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2号』など、数多くの優れた器楽作品を生み出しました。特に後者の終楽章「シャコンヌ」は、急死した最初の妻マリア・バルバラへの追悼の念が込められていると伝わります。
後期のライプツィヒ時代には、聖トーマス教会の合唱長として膨大な宗教声楽曲の創作に没頭しました。『ヨハネ受難曲』や『マタイ受難曲』といった大作では、ルター派の神学思想と、歌詞の意味を音型化する「音楽修辞学」が見事に融合しています。晩年には、自らの対位法技術を後世に残すための集大成に取り組みました。カトリックの式典用大作『ロ短調ミサ』は、宗派を超えた遺言として書かれたと言われがちですが、実際は宮廷作曲家の称号を得るための現実的な就職活動が契機でした。しかし最終的には、過去の自作カンタータの優れた旋律を再利用しながら、生涯の音楽的遺言とも言える最高峰の聖楽へと昇華させたのです。
時代が求めた「わかりやすさ」との衝突
バッハの音楽は、同時代の人々から常に手放しで称賛されていたわけではありません。1730年代以降の音楽界では、親しみやすく明確な旋律を重視する「ギャラント様式」が主流となりつつありました。そのため、あらゆる声部に緻密な対位法を施し、装飾音までも譜面に細かく書き込むバッハの厳格な書法は、新しい世代の耳には古臭く響くようになっていたのです。
1737年、若手批評家のヨハン・アドルフ・シャイベは、雑誌のなかでバッハの作風を「過度に作為的で自然さを損ねている」と公然と批判しました。この出来事は、同時代人がバッハの天才を全く理解できず不当に無視していた証拠だと言われがちですが、実際はそうではありません。バッハは鍵盤演奏家やオルガン鑑定の第一人者として、当時から絶対的な名声を誇っていました。シャイベの批判は無理解から生じたものではなく、バロック末期における美学的価値観の世代間ギャップが表面化したものだったのです。
この批判に対し、バッハ側はライプツィヒ大学の修辞学講師であるヨハン・アブラハム・ビルンバウムを立てて反論を展開しました。ビルンバウムの論述は、バッハが伝統的な修辞学の理論を完全に習得し、それを作曲の実践として応用していた事実を客観的に証明しています。時代の流行が移り変わるなかにあっても、バッハは自らの信じる複雑で高度な音楽構造を決して手放すことはありませんでした。その揺るぎない信念があったからこそ、彼の作品は時代を超えて生き残ることができたのかもしれません。
- 1685(0歳)
アイゼナハの町音楽師の末子として誕生する
- 1695(10歳)
両親を亡くし、長兄のもとに引き取られて鍵盤教育を受ける
- 1703(18歳)
アルンシュタットの聖ボニファティウス教会オルガニストに就任する
- 1705(20歳)
休暇を取り、徒歩でブクステフーデを訪ねてリューベックへ赴く
- 1708(23歳)
ミュールハウゼン参事会へ辞任願を提出し、ヴァイマルへ移住する
- 1717(32歳)
辞意を強硬に申し出て投獄され、釈放後にケーテン宮廷楽長に就任する
- 1720(35歳)
旅行中に妻マリア・バルバラが急死する
- 1723(38歳)
ライプツィヒのトーマスカントル兼市内音楽監督に就任する
- 1727(42歳)
聖金曜日に聖トーマス教会にて『マタイ受難曲』を初演する
- 1737(52歳)
批評家シャイベから作風を「難解で不自然」と批判される
- 1747(62歳)
プロイセン王の宮廷を訪問し、王の主題による即興演奏を行う
- 1750(65歳)
眼科手術の失敗による感染症と脳卒中を併発し、死去する

神の栄光のため、そして皆様のご意向に沿った整然とした教会音楽を演奏することこそが私の終局目標であり…
至高の神にのみ栄光を帰し、隣人がそれによって自らを教導せんがために
当地の当局は音楽に対して風変わりで関心が薄く、その結果私は絶え間ない不快感、嫉妬、迫害の中で生きねばなりません
演奏は少しも難しくない。ただ正しい鍵盤を正しいタイミングで押すだけで、あとは楽器が自ら演奏してくれる

ヨハン・クリストフ・バッハ
関係: 師
両親亡き後にバッハを引き取り、鍵盤演奏とオルガン構造の基礎教育を授けた。

ディートリヒ・ブクステフーデ
関係: 影響を受けた人物
リューベックでオルガン即興演奏と聖楽の技法をバッハに伝えた。

ヨハン・アドルフ・シャイベ
関係: ライバル
雑誌でバッハの作風を「過度に作為的」と批判し、論争へ発展した。

ゲオルク・エルトマン
関係: 友人・支援者
リューネブルクへ共に赴いた学友。後にバッハが不満を吐露する書簡を送った。

ケーテン伯レオポルド
関係: 友人・支援者
音楽を深く理解した君主であり、バッハに理想的な宮廷楽団環境を提供した。
ヨハン・セバスティアン・バッハが生きた時代、画家たちは何を描いていたのか。
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